最後のサムライ-山岡鉄舟と全生庵

最後のサムライ-山岡鉄舟と全生庵

山岡鉄舟の墓所、全生庵

谷中に全生庵という臨済宗のお寺があります。明治13年(1860年)山岡鉄舟が、明治維新で国のために命を落とした殉難者のために建てた寺で、自身の墓所もそこにあります。そのため、境内には山岡鉄舟の墓のほかに、国事殉難志士墓もあります。

山岡鉄舟の健脚を作った幼少時代

山岡鉄舟は天保7年(1836年)、6月10日に本所に生まれます。本名は小野鉄太郎高歩(たかあき)、鉄舟は号です。

父は小野朝右衛門という600石取りの旗本でした。浅草の米蔵で蔵奉行を務めていましたが、飛騨高山の郡代を命じられ、10歳の時に高山に引っ越しをします。幼少の頃から剣術の指南を受けていましたが、この頃から、井上清虎という師匠から北辰一刀流の指南を受けます。(田澤拓也著 大江戸剣豪列伝)

幼少の頃を飛騨高山の山野で過ごしたためか、健脚だったようです。15歳の頃、飛騨高山から、伊勢神宮までの一日10里(40km)の道のりを歩き続け参拝したとされています。(田澤拓也著 大江戸剣豪列伝)

その後鉄舟に転機が訪れます。16歳の時に母親を亡くし、さらにその1年後、17歳の時に父朝右衛門を亡くします。5人の兄弟がいた鉄舟は異母兄の小野古風を頼り、再び江戸へと戻ります。

無私の剣豪、鉄舟

江戸にもどった鉄舟は北辰一刀流を極めるため、開祖、千葉周作の玄武館で学びます。千葉周作の弟、定吉の桶町千葉道場には坂本龍馬も学んでいました。(坂本龍馬が学んだ道場-桶町千葉道場)

兄弟5人を世話するのは大変であったようで、いつもぼろばかり来ていたため、「ぼろ鉄」と呼ばれていました。結婚してからも非常に貧しい生活だったようです。義理堅い鉄舟は国事に奔走する浪士がいれば、自分の生活を顧みず、家に連れてきて食事その他の面倒を見たようです。浪士ばかりでなく、落語家の初代三遊亭圓朝もいたようで、そうした縁からか、全生庵には圓朝の墓もあります。(磯田道史著 江戸の備忘録)

鉄舟は剣の他に父の勧めで禅も学んでいました。その修練は非常に熱心なものであったようで、

禅は始め芝長徳寺の願翁に参じて十年、さらに豆州竜沢村の星定に参ずる。寺は豆州三島駅の東一里ばかりにあり、鉄舟は暇日ごとに、必ず払暁に江戸を発して、騎して函嶺(箱根)を過ぐ。夜四更(午前1時から3時)に滝沢寺に至る。至ればすなわち、まず星定に参じ、後に飯を喫す。(阿部正人編 鉄舟随感録)

上記に伝える通り、修業心の熱心さがわかります。

剣を極めた鉄舟は無刀流という一派を興します。鉄舟は自身の剣道観を

余の剣法を学ぶは、ひとえに心胆練磨の術を積み、心を明らめてもって、己また天地と同根一体の理はたして釈然たるの境に到達せんとするにあるのみ。・・・・・・(中略)・・・・・・余はこの法の呼吸において、神妙の理に悟入せんと欲するにあり(阿部正人編 鉄舟随感録)

としており、禅の世界観、無私の人となりが表れています。

無血開城と鉄舟

鉄舟は講武所(幕府設立の練兵学校)の剣術世話役となり、さらに文久2年(1862年)、浪士組の取締役となり、江戸の治安維持に当たりました。

その後大政奉還を迎え、幕府は賊軍となります。慶応4年(1868年)、政府軍の江戸城攻撃が目前に迫ります。慶喜の朝廷に手向かう意思はない旨を受けた鉄舟は勝海舟と会います。そして、その使者として大総督府(政府軍本部)の西郷隆盛に面会すべく駿府へと向かいます。

既に六郷土手(川崎)あたりまで進軍していた敵軍の中を通り抜け、駿府までの45里(180km)を駆け抜けます。その道のり往復360km。その健脚と無私の心で任務に当たり、西郷と勝海舟の会見を実現させ、無血開城を成します。

鉄舟の死

その後新政府で知事や、明治天皇の侍従を務めた鉄舟は53歳で病により命を落とします。勝海舟は

達人はその身死するも、偉跡は百世に彰る。君の働きにより万衆はその恩沢を蒙り、旧主とこしえに泰然たり。

とその功績をたたえました。