按針通りの名前の由来
中央区日本橋、五街道の起点となっている日本橋からほど近いところに「按針通り」という小さな通りがあります。
按針通りの按針とは、航海士のこと。按針通りの名前は、江戸時代初期、この地に屋敷を与えられていた、三浦按針(ウィリアムアダムス)に由来します。按針通りには三浦按針の屋敷跡を示す石碑が残されています。
三浦按針がこの屋敷を拝領されたころ、この辺りは江戸前島と呼ばれる岬状の地形となっており(江戸の地名の由来-江戸前島)、古くから存在する土地で、拝領以前は増上寺がこの辺りに存在していました。日本橋魚河岸の発展により、多くの魚河岸問屋が営業していました。三浦按針の屋敷があったことから、この辺りは按針町と呼ばれていましたが、昭和7年に日本橋室町1丁目と本町1丁目に編入される形で地名としては消えてしまいました。
三浦按針(ウィリアムアダムス)の日本への道のり
後に三浦按針と呼ばれるようになる、ウィリアムアダムスは1564年、イギリスのケント州ジリンガムで生まれました。当時のヨーロッパは大航海時代に突入していました。ジリンガムはテムズ川の河口付近にある村で、船にかかわる仕事をしている人が多くすんでいました。
ウィリアムアダムスも12歳から船大工の見習いとして12年間働き、造船、航海術、天文学など船乗りとしての知識を深くしていきました。後にイギリス海軍で艦長や航海士を務めるようになりさらに経験を積みます。その後も貿易会社に務め多くの公開を重ねていきました。
ウィリアムアダムスの転機となったのは1598年の事です。オランダ商船団の東洋遠征隊の話を聞き、弟とともに参加します。
1598年6月、ウィリアムアダムスが航海長を務める旗艦ホープ号を筆頭とした5隻の遠征隊がオランダのロッテルダムを出港しました。その後の航海は困難を極めたものとなりました。
熱帯性気候に起因する病気で多くの船員がなくなり、旗艦ホープ号の艦長もなくなってしまいます。そのことからウィリアムアダムスはリーフデ号に乗り移りました。その後も各上陸地での戦闘や飢餓によりウィリアムアダムスの弟を含む多くの船員が命を落とします。
悪天候や逆風により当初予定している航路が取れなくなってしまい、今後の針路について話し合われました。その結果、航海途中で日本に針路をとることになりました。
幾多の困難ののち、大分の臼杵に近い佐志生(さしゅう)の海岸に流れ着いたのはウィリアムアダムスを乗せたリーフデ号のみでした。1600年4月19日漂着。総航海日数666日、2年間にもわたる航海ののち、艦隊総員491名の中、日本についたのは24名のみ。リーフデ号だけで見ても110人の船員の中、24名のみの生存となり歩行できるものがわずかに6名という状態でした。
家康とウィリアムアダムス
その後1600年5月12日、豊臣政権下の大老家康と謁見します。布教を伴わない貿易のみの航海目的や、過酷な航海を乗り越えてきたウィリアムアダムスに好感を持った家康は彼らを江戸へと招きます。
関ヶ原の戦いが目前に迫ったまさに天下分け目の前夜ともいえる時期でした。ウィリアムアダムスたちの幾何学などの知識や積み荷の大砲などが戦に役に立ったと考えられます。家康は彼らを重宝し、日本に引き留めます。結果、ウィリアムアダムスとヤンヨーステンの2名が日本に残ることになりました。ヤンヨーステンもまた、八重洲という地名で東京に痕跡を残しています。(八重洲の地名由来-耶揚子と東京駅)
関ヶ原の戦いに勝利し、慶長8年(1603年)征夷大将軍になった家康は、ウィリアムアダムスを外交顧問として起用します。将軍直属の旗本となり、三浦郡逸見村(現在の横須賀市)に250石の領地を与えられます。三浦の地名、航海士という意味の按針から三浦按針と称し、力を発揮していきます。
その後もウィリアムアダムスは家康の発行した特例的な朱印状を背景に、イギリスとの貿易を強化するきっかけを作りました。日本で結婚、子供も設けたウィリアムアダムスは日本でその人生を終えました。
東京に残された江戸時代に由来する地名
この記事で紹介した以外にも、東京には江戸時代に由来する地名が多く残されています。
参考文献
- 竹内誠編/東京の消えた地名辞典
- 内藤誠・内藤研著/日本を愛した外国人たち
- 辻達也著/日本の歴史13江戸開府
- 吉江宏著/三浦按針の話