信濃町の地名の由来-一行院と永井尚政

信濃町の地名の由来-一行院と永井尚政

信濃町の地名の由来-一行院と永井尚政

信濃町の地名の由来と一行院

信濃町駅のすぐそばに一行院というお寺があります。一行院の起こりは慶長年間(1596年~1614年)の末頃とされていますが、詳しくは分かっていません。この地に下屋敷があった永井直勝が、自身の部下で僧侶になった来誉故念のために、下屋敷の一部、二千二十五坪の土地を与えて庵を建立したのがその起こりと言われています(鈴木成元著 永井直勝)。

慶長5年(1605年)四月、永井直勝の嫡男である尚政は従五位下信濃守の官位を与えられています。その後寛永3年(1626年)、直勝の死後、尚政が家督を継ぎ、永井信濃守を名乗ります。そのため、永井信濃守の下屋敷があったこの辺りが信濃町と呼ばれるようになりました。

一行院に向かう坂を千日坂といいますが、これは一行院の正式名称、一行院千日寺に由来するものです。直勝の死後、回向の為、千日回向を行います。このことから正式名称が一行院千日寺となったと言われています。

ちなみに下屋敷とは大名屋敷の種類の1つです。藩主、その妻が居住する本邸を上屋敷、隠居や継嗣のための屋敷を中屋敷、上屋敷、中屋敷の避難場所、別邸など多様な目的に使われたのが下屋敷です(水戸徳川家の上屋敷-小石川後楽園)。

永井家の祖、直勝と信濃守尚政

永井信濃守家の下屋敷がおかれたことから信濃町の地名が生まれますが、その由来となった下屋敷は一行院の起こりを考えると、慶長年間の初めにはこの地にあったものと思われます。

家康と永井家のつながりは江戸幕府成立前にさかのぼります。尚政の父永井直勝は永禄6年(1563年)、三河で生まれ、若くして家康の家臣となりました。

直勝がその名を知られるようになるのは、家康と秀吉が争った、長久手の戦いでの勝利からです。この戦いで直勝は池田恒興の首を取り、見事勝利を収めます。

その後天正18年(1590年)、小田原の戦いにも家康の家臣として出陣します。小田原の戦いでの勝利により、家康が関八州に国がえとなると、家康とともに江戸に移ります。このころ、相模田倉、上総市原、武射三郡の中五千石を拝領します。

小田原の戦いの3年前、後に信濃守となる尚政が生まれます。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父直勝とともに出陣、その後尚政は秀忠の近習となるなど、徳川家との結びつきを密にしていきます。

その後前述のように、慶長5年(1605年)四月、信濃守を与えられ、直勝の死後寛永3年(1626年)に家督を継ぎます。こうして信濃町の地名が定着していくことになります。

信濃守下屋敷の変遷

正保年間(1644年~1648年)の江戸図を見ると、現在の信濃町駅周辺に永井信濃守の屋敷を確認することができます。一行院が開かれたのが慶長末と考えると、30年以上この地に永井家の屋敷があったと考えられます。その後1626年の家督相続から永井信濃守屋敷と呼ばれるようになったと考えられます。そのため、この頃にはすでに地名としての「信濃」が使われていたことと予想されます。

延宝7年(1679年)の「江戸大絵図」では永井家一族に屋敷が分割され縮小していきますが、地名は今日まで残りつづけました。