江戸名所図絵に「洲崎弁財天社」という一枚があります。
この洲崎弁財天社は現在も、洲崎神社として残っています。
江戸名所図絵を見ると海辺の神社であることがわかります。
元はこのあたり広大な干潟が広がっており、潮干狩りや、初日の出の名所として知られたようです。
江戸名所図絵にも以下のように紹介されています。
都下の貴賤袖を連ねて真砂の文蛤(はまぐり)を捜り、または楼船浮かべて妓婦の弦歌に興を催すもありて、もっとも春色を添ふるの一奇観たり
現在は埋め立てが進み、当時の様子を思い起こすのは容易ではありませんが、境内には海沿いの場所であったことを思わせるものが残されています。
波除碑がそれです。
寛政3年(1791年)9月、洲崎一帯が高潮に襲われ多数の死者、行方不明者が出ました。
幕府はその後、高潮対策として、洲崎弁天西方の東西285間、南北30間(約18000㎡)の土地を買い上げ、建物を建てることを禁じました。
その東の境界に置かれたものが洲崎神社に残る波除碑です。
江戸時代の災害への備え、当時の地形を今に伝えます。