雉子橋の名前の由来-江戸時代のもてなしと食

雉子橋の名前の由来-江戸時代のもてなしと食

食材の名前がついた雉子橋

日本橋川にかかる橋に、雉子橋があります。もともとは江戸城の御門、雉子橋門にかかる橋でした。現在は御門は撤去され、雉子橋自体も大正14年に場所を変え、架け替えられたものが残っています。雉子橋付近の日本橋川の護岸には江戸城の石垣跡が残されています。

雉子橋の名前の由来について、現地案内板では以下のように説明されています。

「見聞集」云、関東御うち入の以後、から国の帝王より日本へ勅使わたり、数萬人の唐人江戸へ来たり、これらをもてなし給には、雉子にまさる好物なしとて、諸国より雉子を集め給ふ。この流のみなかみに鳥屋をつくり、雉子をかぎりなく入をきぬ。その雉子屋のほとりに橋一つありけり、それを雉子橋となづけたりと

朝鮮通信使に供されるキジを囲う鳥小屋がそばにあったため、雉子橋と呼ばれるようになった、ということのようです。

朝鮮通信使に供されたキジ

朝鮮との国交が続けられた江戸時代、両国の修好や将軍代替わりの祝いなどで、国書を持った通信使が江戸時代を通して日本にやってきていました。通信使への食材として提供されていた一つがキジでした。

江戸時代を通して、4本脚の獣肉の食用は忌み嫌われていましたが、鳥類は比較的食べられていたようです。中でもキジ肉は最上の部類とされ、平安時代の宮廷料理や武士の贈答用や、元旦の祝膳に用いられていました。

国賓として扱われた朝鮮通信使。江戸への道中についても沿道の諸藩にたいして幕府からの司令により、宿泊の手配や、饗応が行われました。また、これらの諸藩からの饗応の他にも、まかない料理用の米が供給されました。「慶長二丁末年朝鮮國勅使」によると、供給量は1日当たり47石。この米をもとに市場で必要なものと交換することとなっていました。そのため市場では通信使の注文に応じられるように準備が必要でした。

国賓のもてなしと饗応料理

元和年間の通信使であった朴榟は、東槎日記に饗応についてこのように書いています。

食事は、漆器に盛り付けられたものを食べるとさらに適量ついでくれる。最後に酒を進める。酒器は銀器で柄がある。飯に水を注いで食べ終わると、さらに茶と果物や菓子を進める。木具は金銀に塗り花を飾ってある。

尊者の宴席用の台には金銀を塗った土器がある。料理や菓子また酒も金銀にきらびやかに照り輝いている。

身分による違いもありますが、通信使に対しては七五三引替膳という国賓級の饗応料理が準備されていました。

七五三引替膳とは本膳7品、二膳5品、三膳3品の儀礼膳に引き替えて三汁一三菜の膳からなる大変豪華な食事です。また、こうした饗応料理には先にあげたキジをはじめ、朝鮮で好んで食べられている菓子や、日本では忌み嫌われていた獣肉を利用したものも出されていました。

こうしたもてなしにかかる準備は大変なものであったようで、莫大な費用と時間をかけて準備されていました。

参考文献

  • 別冊歴史REAL/江戸の食大図鑑
  • 原田信男編/江戸の料理と食生活
  • 高橋千劔破著/江戸の食彩春夏秋冬
  • 岡田章雄著/日本史小百科 動物
  • 小学館/食材図鑑Ⅲ
  • 高正晴子著/朝鮮通信使をもてなした料理