横網(よこあみ)の地名の由来
江戸東京博物館や、両国国技館がある両国駅北側一体は横網(よこあみ)という地名です。地名の由来についてはっきりとしたことは分かっていませんが、漁師が横に網を干していたため、という説があります。
横綱(よこづな)という地名の誤認
両国国技館が横網の地にあることや、漢字が非常に似ていることから、横綱(よこづな)と誤認されるケースが多いようです。横網の地名が見られるようになったのは正徳3年(1713年)であるようです。この頃は現在の国技館の場所とは少し離れた、回向院で勧進相撲が行われています。回向院が相撲の定場所となったのは天保4年(1833年)の事ですし、横網の地にまだ国技館はありませんでした(両国の相撲起源の地-回向院)。そのことから、相撲と地名の由来にはあまり関係がないと考えられます。
地名の由来、横網と浅草海苔
竹内誠編「東京の地名由来辞典」では、江戸時代初期にこの辺りで行われていた海苔干が横網の「網」につながっているという考えを示しています。江戸幕府開府前から江戸初期の頃、宮古川(隅田川、浅草付近の隅田川の古い名)では海苔が自生しており、その海苔を採集し、海苔干が行われていたとされます。「東都歳時記」にも
往古淺草の地、元亀天正(元亀年間が1570-1573年、天正年間が1573-1592年)の頃までは路の傍に漁家農家の者此の地の海浜に出て海苔をとり干ひろげてひさぎしより、淺草海苔の名
とあり、この辺りで海苔が取れていたこと、淺草海苔という名物となっていたことが窺えます。おそらくこの頃の海苔の採集は浜や石に自生していたものを手摘みで採集していたものと考えられます。こうした海苔を干す光景が横網あたりでも広く見られたと考えて不思議ではありません。
江戸の発展と浅草海苔、横網の変化
隅田川河岸で海苔干をして、加工された浅草海苔ですが、江戸の発展とともに海苔の自生地が少なくなってきたことや、江戸湾にひびを多く立てて海苔の生産を増加させることを目的として、隅田川河岸、河口部分から、品川沖、葛西、羽田浦といった江戸湾へと産地が移っていきました。産地が浅草から移って以降も、浅草海苔問屋へ供給され、「浅草海苔」という名称で江戸名産として知られていたようです。
江戸に入り、海苔干もおそらく少なくなったであろう横網の地は、寛文年間(1661-1673年)には御材木蔵として利用されました。その後、享保19年(1734年)には本所御蔵が設けられ、蔵前の米蔵に次ぐ規模の幕府の蔵地として利用されました。
その後明治に至るまで本所御蔵として利用され、明治に入ってからは陸軍省の御用地となりました。横網の地名は江戸時代から現在まで続き、両国国技館、江戸東京博物館が建ち、日本の歴史、文化を発信するエリアとなりました。
東京に残された江戸時代に由来する地名
この記事で紹介した以外にも、東京には江戸時代に由来する地名が多く残されています。
参考文献
- 三省堂/江戸東京学事典
- 金田禎之著/江戸前のさかな
- 竹内誠編/東京の地名由来辞典
- NHKデータ編集部編/ヴィジュアル百科江戸事情産業編
- 東京都/東京百年史
- 墨田区横網1丁目埋蔵文化財調査会/墨田区横網1丁目遺跡