湊の地名の由来-江戸湊と江戸の発展

湊の地名の由来-江戸湊と江戸の発展

湊の地名の由来

東京都中央区に湊、という地名があります。地名の由来はまさに江戸時代、全国から江戸への物資を積んだ船が多く集まり、大変な賑わいを見せたことにあります。

湊は「水辺にあつまる」状態を意味します。海辺、水路に船が集まり、人と物が集まる場所を湊と呼び、今日の港のように特定の船着き場や場所を指す言葉ではありません。そのため、現在の湊あたりが特定した荷上場所があったわけではなく、江戸市中に張り巡らされた運河のいたるところに河岸や物揚げ場がありました。この辺りを湊と呼ぶのはおそらくそうした船が八丁堀などを通り江戸に入っていくため、船が多く集まっていたことからついた地名だと思われます。

八丁堀にかけられた稲荷橋の欄干

(八丁堀の入り口、稲荷橋の欄干)

家康入府以前の江戸湊

浅草に形成された「石浜湊」と「品川湊」

家康が江戸に入府する以前からも、入江に河川が流れこむこの地一帯にはいくつかの湊がありました。

浅草にあった「石浜湊」は古代に形作られた湊です。もともとこの辺りまで海が広がっており、隅田川の河口に成立した湊でした。河口付近に広がっていた台地が現在の待乳山で待乳山は本来「真土」を意味します(台地の河川浸食の跡-待乳山)。この台地が船着き場として機能し、石浜湊は鎌倉時代に発展を見せます。

江戸名所図会に描かれた待乳山

(江戸名所図会に描かれた待乳山)

品川湊は目黒川河口に形成された湊です。入江が無く遠浅であったため、沖に停泊した大型の船から小船に移し替えて荷役を行いました。中世には伊勢との航路が確立し、伊勢商人が活躍しました。

太田道灌と江戸湊

12世紀ごろ、江戸館が現在の江戸城のあたりに作られると、平川が注ぎ込む日比谷入江に江戸湊が形成されます。その後室町時代、太田道灌が康正2年(1456年)から長禄元年(1457年)にかけて江戸城を築城します。道灌が江戸城を築城すると、江戸湊は賑わい、日常品を中心とした交易が盛んにおこなわれました。

家康と江戸湊

慶長8年(1603年)、江戸に幕府が開かれると、江戸の都市建設を進めるために、天下普請が行われます。江戸の町づくりで注目されたのは江戸城の目下まで迫っていた日比谷入江でした。日比谷入江を埋め立て、武家地を築きます。

日比谷入江を埋め立てた家康ですが、江戸湊を軽視していたわけではありません。江戸前島を横断する形で運河(道三堀)をほり、さらに江戸前島東岸に10本のくし形の舟入堀を築いています。舟入堀は江戸城の築城等に利用される木材や、石材の輸送に使われました。

武州豊嶋郡江戸庄図

(武州豊嶋郡江戸庄図。張り巡らされた運河やくし形の舟入堀が見える)

家康は単に埋め立てを行うのみでなく、運河を埋め残し、江戸の物資輸送に水運を巧みに利用しました。日本橋の魚河岸をはじめ、運河沿いには多くの河岸や荷上場ができ、江戸発展を支える物資が各地から運び込まれ、江戸湊もどんどん発展していきました。

江戸時代以降の江戸湊、東京港

江戸の発展を支えた江戸湊ですが、維新後、開港し、港町として発展したのは横浜でした。東京港は水深が浅く、大型の船舶は通行できないことがその大きな理由でした。横浜港の発展、さらに鉄道網の整備から、江戸湊の繁栄を失っていくことになります。

その後、関東大震災により、港湾整備の重要性が再確認されました。鉄道網、道路網は地震の被害によりその機能を失いました。しかし、水運はいち早く輸送路として機能。しかし、水深の浅い東京港では大型の船が接岸できませんでした。

こうした築港の必要性の高まりから、震災復旧工事の一環として、大型船が係留できる日の出ふ頭、芝浦ふ頭、竹芝桟橋が作られました。再び東京港は東京の町の発展とともに成長を見せることになりました。

竹芝ふ頭

参考文献

  • 菊池秀夫著/江戸東京地名辞典
  • 中央区図書館/中央区沿革図集第1巻
  • 小木新造ほか編/江戸東京学事典
  • 国土交通省/江戸湊と東京港
  • 内藤昌著/江戸の町(上)