鉄砲洲の地名の由来-鉄砲方と大筒

鉄砲洲の地名の由来-鉄砲方と大筒

鉄砲洲の地名の由来

中央区湊に鉄砲洲、という地名があります。住所として「鉄砲洲」、という地名はないのですが、鉄砲洲稲荷や鉄砲洲通りなどにその名を残しています。

江戸名所図会の「銕炮洲」の項目には地名の由来を以下のように記しています。

伝へいふ、寛永(1624年~1644年)の頃、井上・稲富ら大筒の町見を試みしところなりと、あるいは、この出洲の形状、その器に似たるゆゑの号なりともいへり

つまり、鉄砲洲の地名の由来は以下の2説です。

  • 幕府鉄砲方の井上・稲富の両家が、この砂州上で大筒の稽古を行っていた
  • 砂州の形が鉄砲に似ている

どちらの説が正しいかはっきりとはしませんが、おそらく江戸幕府の初期の頃にはこの辺りで大筒の稽古が行われていたようです。その後、この鉄砲洲の地が江戸城に近いことから、大筒の稽古場は鎌倉の由比ガ浜に移されています。

teppousudouri

江戸時代の鉄砲と大筒

大筒は大砲の一種で、一貫玉(口径89ミリ)以上のものを石火矢、それ以下の百匁玉(40ミリ)を大筒といわれたそうですが、明確な区分があるわけではありません。

火縄銃のような小銃の伝来とは異なり、大砲がどのように伝来したかは諸説あります。「大友興廃記」には天正4年(1576年)、大友宗麟が南蛮渡来の石火矢を入手し、悦び、これを「国崩し」と名付けたと伝えられています。伝来した大砲はポルトガル製の者で、破羅漢(ハラカン)、仏郎機(フランキ)と呼ばれるもので、種子島に伝来した小銃とは形式、製法が異なるものでした。

家康は大阪の陣の際に4貫玉、5貫玉という大きな大砲を12門オランダ商人から購入し、利用しています。しかしその後、大砲はあまり重要視されず、国内では携行可能な小型の大砲が作られるにとどまっています。

鉄砲方の稲富家、井上家

鉄砲洲の地名の由来の一つである稲富家、井上家が務めていた鉄砲方は幕府が所有する鉄砲の制作や修理を担当した鉄砲の技術分野に関する責任者でした。

稲富家の稲富直家(祐直とも)は天文20年(1552年)、丹波に生まれます。祖父の直時から砲術を学び、火薬の配合や射撃姿勢に工夫を加えて、砲撃の一流派である稲富流を興します。細川忠興に従えます。関ヶ原の戦いの際に東軍についた忠興から、大阪に残っていたガラシャ夫人の警護を命じられるのですが、失敗し遁走することとなります。その後家康に助けを求め忠興の許しを得、家康に従え鉄砲方となります。

井上家の井上正継は播磨の生まれで、外記流という砲術の創案者となります。井上正継と稲富直家の孫の正直はともに慶長19年(1614年)の大阪の陣にも出陣し、大阪城を砲撃、講和の成立となる大きな要因を作ります。

井上家と稲富家はそれぞれの砲術の流派の違いから刃傷沙汰にまで発展。やがて両家とも咎めを受けて家禄没収、改易の処分を受けます。その後寛文3年(1663年)、4代将軍家綱の赦免を受けますが、稲富家は鉄砲方からは外れ、鉄砲方は幕末まで井上家、田付家の世襲となります。

稲富直家と花火

稲富流砲術の創始となった直家ですが晩年は三河に居を構えていたようです。三河の地にも稲富流砲術が根付きますが、時代は太平の世。ヨーロッパでは小銃の改良なども盛んにおこなわれますが、日本では火砲の研究はほとんど行われなかったようです。三河に根付いた稲富流も本来の砲術としてではなく、稲留流という三河花火の一派へと発展していった、という説があります。

稲富流砲術が花火の一派となり日本花火の祖となっていきました。

参考文献

  • 竹内誠編/東京の地名由来辞典
  • 市古夏生・鈴木健校訂/新訂江戸名所図会巻之一
  • 菊池俊彦編/図譜 江戸時代の技術
  • 大石学他編/現代語訳徳川実紀 家康公伝
  • 新人物往来社編/大江戸役人役職読本
  • 泉谷玄作著/日本の花火はなぜ世界一なのか?