吉原遊女の無縁寺-浄閑寺と吉原遊女

吉原遊女の無縁寺-浄閑寺と吉原遊女

三ノ輪浄閑寺と永井荷風

荒川区三ノ輪に浄閑寺というお寺があります。正しくは「栄法山清光院浄閑寺」と言い、浄土宗のお寺です。開基は諸説ありますが、明暦元年(1655年)とされています。

浄閑寺は小説家の永井荷風が愛した寺として知られています。荷風の作品「里の今昔」には浄閑寺を初めて訪れた時のことが記されています。明治31年、出入りしていた劇場の役者たちから、浄閑寺にある、新比翼塚(品川の遊女盛紫と内務省属の警部補谷豊栄を追悼するために建てられた碑)に参拝に行った話を聞いたことから、荷風も浄閑寺を参拝します。(浄閑寺発行 浄閑寺と荷風先生)

荷風は「里の今昔」の中で、この頃の浄閑寺の様子を

わたしが掃墓に赴いた時には、堂宇は朽廃し墓地も荒れ果てゝゐた。

と表しています。その後荷風は長く浄閑寺を訪れていませんが、30年あまりたった後、再びこの地を訪れます。

今日の朝三十年ぶりにて浄閑寺を訪ひし時ほど心嬉しき事はなかりき。近鄰のさまは変わりたれど寺の門と堂宇との震災に焼けざりしはかさねがさね嬉しきかぎりなり。余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の意思を建てよ。(断腸亭日乗)

荷風の墓は願い通り浄閑寺に建てられることはありませんでしたが、谷崎潤一郎など生前荷風と親交のあった人々の尽力によって、境内に荷風碑が作られました。

吉原遊女と投込み寺、浄閑寺

浄閑寺に葬られる吉原遊女

荷風の断腸亭日乗に「この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる」とあるように、浄閑寺は近くの吉原遊女が多く葬られていることで知られています。山谷堀沿いに作られた日本堤の北端に位置する浄閑寺は吉原とも近いことから、多くの遊女が葬られました。

浄閑寺に葬られた遊女は安政二年、また大正に発生した震災の犠牲者も合わせて、二万五千人ともいわれています。こうした遊女は遊郭に入るときに身売りされ、戸籍から外れています。浄閑寺には寛保3年(1743年)以来の過去帳が残されていますが、そうしたことから、埋葬された遊女の身元は分かりません。

浄閑寺は投込み寺、と俗称されますが、安政二年(1855)年の大震災の犠牲となった遊女を多く葬ったからです。過去帳に記載された人数だけでも千人ほど(浄閑寺発行 浄閑寺と荷風先生)。多くの遊女葬られたことが、まるで投げ込むように埋葬したという連想につながり、このように俗称されたのでしょう。

浄閑寺荷風碑

吉原の起こりと移転

もともと遊郭であった吉原は現在の人形町あたりにあったアシが一体にはえる低湿地帯に作られました。そこから転じて葭原となり、「悪し原」ではごろが悪いと、「吉原」とされました(アシの原に作られた歓楽街-元吉原)。

吉原が現在の千束の地に移ってきたのは浄閑寺の開基、明暦元年(1655年)の二年後の事です。その前年の明暦2年(1656年)、理由は定かではありませんが、千束の地へ移転を命じられます。その後、発生した明暦の大火(振袖火事)後に移転、新吉原として営業を再開します(築地地名の由来-振袖火事と築地本願寺,堀江宏樹著 三大遊郭,花田富二夫著 江戸早わかり事典)。

吉原遊女の一生

遊郭入り

将来遊女となるために吉原に連れてこられる少女には、仲介業者を介して、貧しい農村から売られてくる少女もいたようです。幕府によって人身売買は禁じられていましたから、表向きは給与を定めた奉公人として証文を交わしその身をもらい受けたようです。その額は「世事見聞録」の記述によると三~五両。消して高価とは言えない額で、10歳前後の少女が親元を離れ、吉原遊郭の世界へ入ります(渡辺憲司監修 吉原遊女のすべて)。

見習い時代、「禿(かむろ)」

遊女の逃亡「足抜け」を防ぐために四方に設けられた「おはぐろどぶ(大溝)」、出入り口は大門の一か所のみ。その大門にも四郎兵衛と呼ばれる監視員の会所があり、女性の出入りを厳しく監視されました。少女を一人前の遊女に仕立てるためには時間的、金銭的なコストが膨大にかかります。また、遊女の逃亡「足抜け」は遊女屋(置屋)の管理不足を露呈する為、厳しく取り締まられました。

吉原遊郭に入った少女は遊女見習いの新造になるまでの数年間を禿(かむろ)として過ごします。特定の花魁(ランクが上の遊女)について、その雑用をこなし、吉原遊女としての基礎を身に着けていきます。ちなみに花魁という言葉の起こりは、妹分の禿や新造が、「おいらの(姉女郎)」とよんだことにあるされています(江戸文化歴史検定協会編 大江戸見聞録)。

「新造(しんぞう)」、一人前の遊女へ

禿として一定期間を過ごし、14,15歳になると新造(しんぞう)となります。吉原遊女にはランクがあり、この新造の頃から、禿のころのおこないにより以下のようにランク分けされます。

引き込み新造 引込禿が育って新造となったもの。禿時代から将来を見込まれ、芸や作法など特別な教育を受けた禿がなる。
振袖新造 見た目、作法、器量などが良い禿がなる。将来の看板遊女になると見込まれたもの。
留袖新造 器量がそれほどよくなかったり、禿になる時期が遅く、吉原での経験が少ないもの。中級以下の遊女となる。
番頭新造 年季明け(引退)したのちも吉原で働く元上級遊女、もしくは吉原に就職した女性がなる。上級遊女の世話などを行う。

こうして新造として経験を積んだのち、「突出し(つきだし)」と呼ばれるお披露目を行います。引き込み、振袖新造であれば道中と呼ばれるパレードでのお披露目となり、留袖新造は籬の中(見世)に並んでのお披露目となります。そののち、客をとり、一人前の遊女となっていきます。

引退、郭の外へ

一人前の遊女としての生活は「苦界十年」と言われるように、決して楽な生活ではなかったことが想像できます。現役遊女の引退にはいくつかのルートがありました。

  • 身請け

客や、親元が借金、またこれから先の想定される稼ぎを支払い身元を引き受けるものです。客が身請けを行う場合、大変な額がかかったようで、なかなかあることではありませんでした。

  • 年季明け

身請けがされないまま、10年ほどが経つと年季明け、引退となります。突出しを経て、初めて客を取る17歳ごろから、10年間の年季奉公という形式で働いていました。そのため10年で引退となります。引退後は客の中から夫婦となる人を見つけ、結婚していくもの、親元にもどる者、さまざまあったと考えられます。

年季明けをしても行く先がない場合、そのまま遊郭内で働き続ける者もいたようです。ランクが下級の切見世で客を取ったり、番頭女郎や、遣手といった形で遊女屋に残るなど、引退後も厳しい現実があったようです。

吉原大門と見返り柳

吉原大門と見返り柳

死しては浄閑寺

身請けや年季明けを迎えて、遊郭から出られればまだよいのですが、遊郭内で死んでいく遊女も一定数いたようです。栄養失調や性病などで亡くなる遊女もいました。

また、「足抜け」に失敗した場合、遊女屋の遣手や主人から厳しい折檻を受けます。その際に亡くなったり、心中、自殺する遊女もいたようです。こうした遊郭内で亡くなった遊女が葬られた先が浄閑寺でした。

花又花酔は「生まれては苦海、死しては浄閑寺」と句を残していますが、その通り、厳しい遊女の生活があったことが垣間見えます。