秋葉原の地名の由来–秋葉講と秋葉神社

秋葉原の地名の由来–秋葉講と秋葉神社

秋葉原の地名の由来

電気街として有名な台東区秋葉原。日本のみならず、海外からの観光客でにぎわっています。秋葉原の地名の由来は、江戸の町が抱えた問題と、秋葉山信仰に関係があります。

江戸は大変火事が多い町でした。明暦の大火、文化の大火、行人坂大火など、江戸市中をほとんど焼き尽くす大火もたびたび発生しています(目黒行人坂-大円寺と江戸の大火)。原因は江戸の発展に伴い、高い密度で木造建築物が立ち並んでいたことです。また、冬に北から吹く空っ風も火を広げる一因となりました。

江戸時代が終わり、明治となっても、江戸の街並みはそう急には変わらず、依然木造の建物が密集していました。明治にはいってすぐ、東京を大火が襲います。この大火がきっかけとなり、火災延焼をふせぐ火除地と呼ばれる空き地が秋葉原の地に作られました。

この火除地に英照皇太后(明治天皇御母)の発案により、皇居内の紅葉山より火防の神である火産霊大神、水波能売神、埴山比売神の三神を奉遷し、三神を祀った社が創建されました。この社は秋葉山信仰の対象であった秋葉大権現とは直接の関係はないようです。火防信仰で有名であった秋葉大権現が祀られていると勘違いした人々がこの地を、秋葉大権現の原っぱ、「秋葉っ原」とよんだことが定着し秋葉原となりました。

東海道秋葉山常夜灯に見る秋葉山信仰

火防の神様と言えば秋葉山、という江戸の人々の誤解から生まれた「秋葉原」の地名ですが、それほどまでに強く認知された秋葉山信仰とはどのようなものだったのでしょうか。それを垣間見えるものが静岡にあります。

江戸日本橋を離れて230キロ、静岡県袋井市に東海道の宿場町、袋井宿。東海道27番目の宿場町で、53次と言われた東海道の中間に位置します。そんな袋井市の新屋という町に、木製の秋葉山常夜灯があります。近くで見ると、精巧に彫られた彫刻が良い状態で残っており、街道を歩く足もついつい止まってしまいます。

この秋葉山常夜灯は、江戸時代に流行した秋葉山信仰に関係します。秋葉山信仰は火防の神、秋葉大権現を信仰するものです。信仰の対象となる秋葉大権現については諸説ありますが、江戸時代は神仏習合で、山岳信仰なども交わり、広く秋葉山として信仰の対象であったようです。

常夜灯は地区の人々の火防の神、秋葉山への信仰の形として作られました。また、秋葉山参拝も盛んに行われるようになり、袋井市新屋の常夜灯のように街灯としての目的で作られたものもあります。東海道を往き来する旅人たちの目印となりました。

江戸時代の代理参拝組織、「講」

秋葉山信仰の高まりとともに、信仰の対象である秋葉山に参拝する「旅」も行われるようになりました。江戸時代の旅の大きな目的が信仰がありました。交通手段が発達していない当時の人たちにとって、旅は一生に一度あるかないかの大イベント。かかるお金も相当です。信仰の旅も誰しもが気軽に行けるものではありませんでした

そこで江戸時代、考えだされたのは集団でお金を出し合い、代表者がみんなの代わりに参拝の旅に出る「代参講」という仕組みでした。秋葉山に参拝する為の集団を秋葉講と呼び、関東などを中心にたくさんの秋葉講が組織されました。秋葉講の他にも伊勢講や大山講など、様々な代参講が組織され、信仰の旅が活発になりました。秋葉山への信仰もこうして広がり、各地で秋葉山常夜灯や、秋葉神社が作られるようになりました。

今も残る秋葉神社

秋葉原から少し離れた、台東区松が谷に秋葉神社があります。この秋葉神社は秋葉っ原に創建された社が起源です。

松が谷に移された秋葉神社
秋葉原にあった社はやがて秋葉社となり、秋葉原の地に明治21年まで存在しました。その後、鉄道駅(秋葉原駅)建設に伴い現在の松が谷の地に遷宮されました。秋葉原の地名は今に残り、人々の信仰も秋葉神社という形で残り続けています。