築地の地名の由来
築地市場があり、東京の台所として全国にその名を知られる中央区築地。市場移転を控えて築地の町も大きく変わろうとしています。
築地の土地は江戸時代の埋め立てによりできた土地です。地名の由来は「地を築く」、まさに埋め立てそのものを表しています。「築地」という地名は中央区築地のほかにも神戸の兵庫埠頭にある「築地町」、名古屋市港区の「築地口駅」等、埋め立てや港に関係するところに多く見られます(森清杜著 「築地」と「いちば」)。
江戸時代の埋め立て工事は大変困難なものだったようです。築地場外の一角にある波除神社のいわれからも工事の大変さをうかがい知ることができます。
4代家綱の埋め立て工事で困難を極めた築地海面。埋め立てのための堤防を築いても都度激しい波にさらわれてしまいます。ある夜、海面に光を放ち漂うものがあることに付近の人々が気付きます。拾い上げたところ稲荷神の像でした。社殿を作り祀ったところ、それ以降ぴたりと波風がおさまり、埋め立て工事が完了した、というのが波除神社のいわれです。
築地埋め立てのきっかけとなった築地本願寺
日比谷線築地駅を出て、新大橋通りを歩くと、異彩を放つエキゾチックな建物が目を引きます。築地の顔とも言える、築地本願寺です。この本願寺が築地という土地の起こりに深いつながりがあります。
築地本願寺の現在の本堂は東京帝国大学教授、伊藤忠太博士の設計で1934年に造られたものです。見慣れた寺院の形とは一線を画していますが、古代インド仏教の様式や、桃山建築様式も取り入れた荘厳な建物です。
築地本願寺の起こりは元和3年(1617年)、西本願寺12代門主、准如上人が本願寺別院としてお堂を建立したことにあります。江戸海辺御坊、または浅草海辺御坊と呼ばれていました。1632年に刊行された「武州豊嶋郡江戸庄図」にも、現在の東日本橋付近に寺地が描かれています。
明暦の大火と本願寺移転、築地の埋め立て
そんな浅草海辺御坊が築地の土地形成にかかわり、築地本願寺と呼ばれるようになるきっかけは、明暦3年(1657)に起きた、明暦の大火(振袖火事)にあります。浅草海辺御坊も明暦の大火で焼けてしまいました。しかし、同じ土地での再建許可が得られず、同年に、八丁堀の海上の土地が与えられます。再建許可が下りなかった理由は、防火対策、人口過密対策など、都市計画上の理由が考えられます。
また、八丁堀の海上が与えられた理由についても、埋立地造成のコストを抑えるためと考えられます。江戸時代初期、江戸城前まで入り込んでいた日比谷入江を埋め立てる際も、外様大名に屋敷地としての土地を与え、埋め立てを大名自身に行わせ、土地造成を行っています。
浅草海辺御坊再建の土地として、100間四方(1万坪)を与えられますが、佃島の信徒を中心に1万2700坪を造成し、そのまま拝領することとなります。築地の地名はまさにこの工事、埋め立てそのものを表します。そして築地御坊改め築地本願寺を中心に、築地エリアは栄え、江戸発展の拠点となりました。
明暦の大火は、江戸市中を焼き尽くす大変な火事でしたが、この火事により、江戸の市街地再編が進みます。残土による埋立地の形成、人口過密エリアの郊外移転により江戸は都市としてさらに拡大していくことになります。
東京に残された江戸時代に由来する地名
この記事で紹介した以外にも、東京には江戸時代に由来する地名が多く残されています。