高輪に残る門、高輪大木戸
田町、品川間に2020年3月、山手線の新駅「高輪ゲートウェイ駅」が開業しました。JRは駅名の選定理由の中でこのエリアのことを
古来より街道が通じ江戸の玄関口として賑わいをみせた地であり、
としています。
江戸時代、高輪ゲートウェイ駅があるこのあたりは、まさに江戸の「ゲート」である、高輪大木戸がありました。江戸時代には各町ごとに木戸が設けられ、自身番をおいて警護させていました。大木戸は各街道の江戸の入り口に当たる場所に設けられた門です。
高輪大木戸は街道の中でも交通量が多かった東海道に設けられ、現在でもその石垣を見ることができます。
高輪大木戸の変遷
高輪大木戸は6代将軍家宣のころ、宝永7年(1710年)品川宿より半里手前の現在の場所に築かれました(諸説あり)。それより以前の元和年間(1615年~1624年)頃、現在の場所より北側に設けられたそうですが、移転し、今の場所に築かれました。もともと大木戸があった場所は元札ノ辻と呼ばれていましたが、現在では単に「札ノ辻」と呼ばれ、今も交差点名にその名を残しています。
(歌川芳宗 本芝札ノ辻)
なぜ宝永に入り現在の場所に移されたのかは定かではありません。しかし、同じころ、これまで門がなかった芝口見附に城門が築かれています。この理由は朝鮮使節をむかえるにあたっての威容を示すためや、他の街道との均衡を保つためといわれています。同時期に作られた高輪大木戸についてもこのような理由があったのではないかと考えられます。
石垣の高さは3.6m、幅5.4m、長さ7.3m。これが道幅約6間(約10m)の東海道脇にあり、木戸があったのですから、相当な威圧感があったと考えられます。高輪は江戸の玄関口となり、見送りや迎えの人々、旅人で賑わいました。享和3年(1803年)、幕府に命じられて東海北陸の測量をした伊能忠敬も高輪大木戸を起点としています。
その後高輪大木戸は明治初年、道路拡張工事のため、西側の石垣は取り払われてしまいますが、昭和3年、片側の石垣が国の指定史跡となり、現在に残っています。
描かれた高輪と高輪大木戸
この大木戸がある高輪は、江戸名所百景にも描かれています。
82景 高輪うしまちです。
図は高輪大木戸の外側(品川側)をえがいたものです。絵の右側にダイナミックに牛車が描かれています。
寛永11年(1634年)、増上寺の安国殿(あんこくでん)建立の際、京都の牛持たちが江戸に呼ばれ、石材などの資材運搬を勤めていました。
この牛持たち、江戸に来た当時は市ヶ谷に住んでいました。3代将軍家光のころ、海、街道にも近く、資材運搬に便利な高輪あたりに移住を命じられました。そこからこのあたりを牛町という地名で呼ぶようになったようです。
高輪うしまちの絵には、海上に台場を見ることができます。左から第七台場、そして現在も残る第三台場、第六台場が並んでいます。
上図は二代目歌川広重によってえがかれた高輪大木戸です。中央に見えるのが大木戸の石垣、右には海が広がっています。
江戸時代が終わり、明治に入ると海上を埋め立て、鉄道が走るようになります。そして、2020年3月、高輪大木戸があったこの地に新駅「高輪ゲートウェイ駅」が誕生しました。
参考文献
- 大野光政著/江戸百景今昔
- 豊橋市二川宿本陣資料館/東海道名所風景
- 古賀牧人著/石に刻まれた江戸・武蔵
- 豊島寛彰著/東京歴史散歩第1集
- 安西篤子著/東京歴史散策