木場の地名の由来
江東区木場の地名は、この地にあった材木商人の材木置き場(木置場)に由来します。現在の木場にあった木置場はもともとここにあったのではなく、江戸時代初期は神田、道三堀のあたりにあり、その後この地へ移り、地名として定着しました。
江戸の初期、日比谷入江にあった木置場ですが、日比谷入江の埋め立てが進み、材木の取引が不便になると、材木商人が集まる材木町も新しい埋立地へと移ります。三十間堀、茅場町のあたりです。その後、寛永18年(1641年)、京橋から火が起こり、大火となります。江戸市中の各所に点在した材木町も大変な被害を受けます。火事の多い江戸は建材としての材木の需要が高く、大切なものでした。隅田川東岸で大火の影響を受けにくいこと、また、延焼材としての材木を江戸市中から遠ざけることから、深川漁師町(佐賀町、永代)の入り堀が注目され、材木商人の木置場が移動し、「元木場」を形作っていきました。
また、材木商人が多くいた本材木町(日本橋、京橋の一部)の入堀埋め立てに伴い、さらに材木商人の深川(元木場)への移動が促進されます。その後幕府の干拓事業による元木場の召し上げにより、当時造形されたばかりの「築地町」の地が代替地となりました。この築地町が深川木場町となり、現在の木場につながっていきます。
貯木と筏師
いくつかの移転を経て現在の町名が残る木場へと移った木置場ですが、どこであっても海辺である、ということが条件でした。
原木は、そのまま置いておくと、乾燥によるひび割れや、虫喰いが発生します。そのため水につけた状態での保存がされます。材木の保存には、海水と淡水が混じった汽水の状態が適しています。江戸時代初期の道三堀は、平川が流れ込む、日比谷入江、つまり海があり、材木を扱うのに適していたといえます。木場も隅田川の河口付近であったため、木置場としては最適な場所でした。
冒頭の写真は、江東区木場の木場親水公園にある銅像です。木置場では、筏師(川並)と呼ばれる職人が活躍しており、その様子を表しています。筏師は材木の運搬、仕分けのために丸太を組み、筏を作り竿で操る職人です。木場では特に筏師のことを川並、とよび、木場と川並は切り離せない関係にありました。
木置場のさらなる移転と木場公園
木場の木置場は昭和50年頃まで利用されましたが、東京湾の埋め立てが進み、新木場へとさらに移転をして、現在に至ります。新木場へと移転した材木関連企業跡地を土地を取得し、広大な面積の木場公園が作られました。木場公園の一角にはイベント池が設けられ、川並の伝統芸、角乗りなどを見ることが出来ます。
東京に残された江戸時代に由来する地名
この記事で紹介した以外にも、東京には江戸時代に由来する地名が多く残されています。
参考文献
- おはなし江東区 木材の町新木場
- 江東区史 上巻
- 竹内誠著/東京の地名由来辞典