板橋駅前の近藤勇供養塔
北区滝野川、板橋駅東口を出てすぐの場所に近藤勇の供養塔があります。近藤勇の墓地は各所に存在しているのですが、ここ板橋駅前の供養塔には胴体が埋葬されていると伝えられています。
近藤勇は板橋宿手前、平尾一里塚付近で処刑されます。板橋宿の刑場にて処刑とされていますが、実質は街道脇の馬捨て場であったようです(松平定知著 幕末維新を「本当に」動かした10人)。
この馬捨て場のあった場所を示すものは現在残されておりません。黒船社中 板橋宿周辺 ~近藤勇 最期の地~(http://www.kurofune-shachu.com/shiseki/itabashi.html)では中山道脇にある馬頭観音を紹介し、この辺りに馬捨て場があったのではないかと考察されています。
また「馬頭」という名称から、民間信仰では馬の守護仏としても祀られる。さらには、馬のみならずあらゆる畜生類を救う観音ともされていて、
馬頭観音の石仏については、馬頭の名称から身近な生活の中の「馬」に結び付けられ、近世以降、民間の信仰に支えられて数多くのものが残されている。
とあり、何らかの関係があると考えてもよさそうです。
終焉の地に近いこの場所に新選組隊士の1人であった永倉新八が発起人となり、明治9年(1876年)、供養塔が作られました。供養塔には発起人である永倉(本名長倉)新八の名を見ることができます。
武士として生きた近藤勇と新選組
近藤勇や土方歳三は多摩地方で天然理心流という剣術をともに学んでいます。多摩地方は天領地であったため、武士でない身分のものが剣術を学ぶことにそれほど厳しくなかったようです。坂東武者から続く武芸を尊ぶ意識があり、近藤勇や土方歳三は武士にあこがれていたのかもしれません。また天領地で生まれ育った彼らの中に徳川家への忠誠のようなものが意識としてあったのかもしれません。彼らは新選組、武士として生きていくこととなります。
晩年の近藤勇
新選組は池田屋事件等での活躍を経て、一気に有名になっていきます。しかし、その隆盛も長くは続きません。鳥羽伏見の戦いでは錦の御旗を掲げ、新式の兵器を手に戦う討幕軍を相手に抜刀で死力を尽くしますが、時代の移り変わりは誰の目にも明らかでした。
その後近藤勇は江戸にもどり、土方歳三とともに慶喜に拝謁します。近藤は大久保、土方は内藤姓を賜り、ますます忠誠を強く誓います。新選組は甲陽鎮撫隊と名をかえ、さらなる戦いを続けますが、苦戦が続きます。この頃には方針の違いから永倉新八とも袂を分かっています。
明治元年(1868年)、4月3日、流山に脱走兵終結の情報を入手し、集結した新政府軍により、近藤勇はついにとらえられてしまいます。その後板橋宿に護送され、脇本陣に幽閉されて取り調べを受けます。池波正太郎著 近藤勇白書には以下のように描いています。
近藤勇・断罪の処分書は次のごとくだ。
「右の者、元来浮浪の者にて、初め在京新選組の頭をつとめ、後に江戸に住居いたし、大久保大和と変名し、甲州並下総流山において官軍に手向ひいたし、或は徳川の内命を承り候といつはり唱へ、容易ならざる企におよび候段、上は朝廷、下は徳川の名をいつはり候次第、その罪、数ふるに暇あらず、よつて死刑に行ひ梟首せしむるものなり」
近藤は1868年4月25日、冒頭にも紹介の通り、板橋の「馬捨て場」にて処刑されます。
時代の流れにより罪人となった近藤勇と新選組ですが、最後まで武士として生きたその姿は今でも人々の人気を集めていることは言うまでもありません。
最後に近藤勇が幽閉された脇本陣跡、取り調べが行われた本陣跡、そして処刑が行われた馬捨て場の場所であると推測される馬頭観音について位置を示します。
- 板橋宿平尾脇本陣富田家
中山道沿いにある「花の湯」のわきの道に入る。マンションの前に石碑。
- 板橋宿本陣飯田新左衛門家
中山道沿い。スーパーライフの隣。
- 馬頭観音
中山道沿い、ドラッグぱぱす前の脇道に入る。