上野戦争を今に伝える-寛永寺黒門

上野戦争を今に伝える-寛永寺黒門

上野戦争を今に伝える-寛永寺黒門

荒川区円通寺に残る寛永寺黒門

荒川区南千住に円通寺というお寺があります。このお寺に古い冠木門が残されています。上野にあった寛永寺から移築された黒門です。

寛永寺は江戸幕府が開かれてから草創された新しい寺院です。開山は家康のブレーンと言われた天海僧正。寛永2年(1625年)に江戸城の鬼門に当たる上野を守るため、寛永寺を創りました。山号は東叡山。京の鬼門に作られた比叡山延暦寺にならってつけられたものです(NHKデータ情報部編 江戸事情第五巻)。

寛永寺内の建物の多くは諸大名の寄進により作られました。現存する上野東照宮も寛永寺境内に作られたもので、藤堂高虎の寄進によるものです。また、元禄11年(1698年)には中堂も作られます。寛永寺は徳川家の菩提寺として栄え、最盛期には30万5千坪という広大な敷地を誇りました(洋泉社 図解大江戸八百八町)。

慶應4年(1868年)に起こった上野戦争で、多くの伽藍が焼失します。円通寺に残された黒門は当時から残る少ない遺構です。幕府軍として戦い、命を落とし上野の山に野ざらしとなっていた彰義隊隊員の遺体を、当時円通寺住職であった仏磨和尚が寛永寺御用商人三河屋幸三郎とともに円通寺に合葬しました。これが縁となり、明治40年、円通寺境内に黒門が移築され今に残っています(現地案内板による)。円通寺境内には彰義隊の墓もあります。

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寛永寺が上野戦争の舞台となった理由

円通寺に残された黒門を見ると無数の弾痕を見ることができ、上野戦争の激しさが容易に想像できます。なぜ、上野が戦いの舞台となったのでしょうか。

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鳥羽伏見の戦いで幕府軍の敗色が濃いものとなったことを知った慶喜は海路、軍艦「開陽」で江戸へと戻ります。この段階で幕府軍はすでに新政府軍に抵抗できうる力はなかったのですが、諸大名の主戦派の中には大政奉還を認めずなおも抵抗をしようとする動きも残っていました。

慶喜はそうした姿勢をいさめ、新政府軍に戦意がないことを示すため、江戸城を明け渡し、菩提寺である上野寛永寺に入り、屏居します。屏居の慶喜の警護のため、一橋家臣団の中から、澁澤誠一郎、天野八郎を中心とする部隊が結成されました。のち、参加するものが次第に増えていき、浅草の本願寺を本拠地として、彰義隊に発展していきます。彰義隊はその後も上野の警護に当たりました。

江戸における西郷隆盛、勝海舟の会談により、慶喜の助命が決まり水戸退隠となると、慶喜は江戸をはなれます。しかし、彰義隊はなお新政府への抵抗をつづけ、解散に至らず上野に残ります。こうして上野は戦いの舞台へとなっていきます。

彰義隊と官軍との対立

彰義隊は慶喜の水戸退隠後も参加者を増やします。本隊500名のほか、付属した隊として、遊撃隊、歩兵隊、砲兵隊、純忠隊、臥竜隊、旭隊、萬字隊、神木隊など、1500名の人数となります。官軍とはいえ、薩長の私兵とする見方も強く、市民も長く続いた江戸徳川への対抗者として反発する風潮もあったようです。そのため、どちらかといえば彰義隊に同情的な見方がありました。諸藩脱藩の士で薩長に対抗心があるものなどの加入が続きます。

官軍はこのころ、官軍への所属を示す「錦巾れ」を上腕に着けていました。彰義隊の中には「錦巾れ切り」と称して、それを集め自慢する、ということが流行し始めていました。このような彰義隊と官軍の対立、反感が上野戦争につながっていきます(東京百年史)。

上野戦争と彰義隊のその後

慶應4年(1868年)5月15日、ついに官軍が上野にこもる彰義隊への攻撃を始めます。上野戦争の始まりです。

午前四時ごろ、官軍は西の丸下の大下馬(現在の二重橋下)に集合し、出発します。その後、官軍は寛永寺正面の黒門、本郷台、駒込、神田から彰義隊への攻撃を開始します。前夜から続く雨の中での戦いとなりました。

官軍の勢力は1万5千あまり、大村益次郎が九段で総指揮をとります。対する彰義隊は2千あまりとも2千7百ともいわれています。また、武器にも歴然とした差がありました。彰義隊は自前の甲冑や日本刀、また歩兵の古い銃などを寄せ集めたものでした(日本甲冑史下巻)。

本郷台から放たれた、官軍の新兵器アームストロング砲が寛永寺に着弾、これにより火災が起こります。これにより寛永寺にこもる彰義隊の敗戦は濃厚となりました。

朝から続いた戦いも昼過ぎには終了します。会津方面に逃れるもの、江戸市中に潜むもので彰義隊は総崩れとなりました。官軍の死者40名、負傷者約70名に対し、彰義隊の死者2百数十名という完全な敗北でした。組織的で正式な戦争、という意味合いではなく、彰義隊としては「武士」としての意地、精神的な戦いである面が大きかったと考えられます。

黒門に残された多くの弾痕が彰義隊の思いを今に伝えています。