江戸時代の大事故を今に伝える-海福寺慰霊塔

江戸時代の大事故を今に伝える-海福寺慰霊塔

江戸時代の大事故を今に伝える-海福寺慰霊塔

目黒海福寺の供養塔

目黒不動の通称で知られる瀧泉寺のそばに海福寺というお寺があります。廃寺となった新宿区上落合の泰雲寺という寺から移築された四脚門が目を引きます。中央にある2本の親柱と、前後の2本ずつの控柱がある門を四脚門というそうで、神社、寺に多く見られます。

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四脚門に向かう途中に供養塔があることに気づきます。この供養塔は文化四年に発生した、永代橋崩落事故の犠牲者を弔うための供養塔です。

江戸時代の隅田川架橋

永代橋は隅田川に架かる橋です。現在の隅田川にはたくさんの橋が架かっていますが、江戸時代はそうではありませんでした。江戸城防備のため、渡船を主力にし、橋をかけることを渋ります。
しかし、深川地区の発展に伴い、万治2年(1659年)両国橋が架けられます。その後元禄6年(1693年)に新大橋、元禄11年に永代橋、安永3年(1774年)に吾妻橋が架けられます(稲垣史生著 楽しく読める江戸考証読本ニによる)。江戸時代から明治にかけ、この4本のみでした。
合わせて、防備の都合、維持費の観点から幕府は橋の廃止をしようとします。廃止されては困る住民が存続運動を行い、結局修理費、維持費を住民が負担する形で維持されました。住民達は橋の通行料を徴収し、受益者負担による橋の維持を実現しました。

永大橋の崩落事故

永大橋は五代綱吉の50歳を記念して架けられたと言われています。長さ百十四間(約200メートル)、幅三間四尺(約6メートル)、満潮時の水面からの高さが一丈(約3メートル)の大橋でした。江戸湊の船の通行をふさぐことがないよう、橋脚を高くしていました。
永大橋もやはり、通行料を徴収し、その収益を維持費に当てていました。しかし、武家、医者などの職業の人々からは通行料徴収していなかったこともあり、あまり維持費は集まらなかったようです。こうして古い橋が修繕されないまま長く使われることになります。
文化4年(1807年)、この年は大喧嘩が原因で禁止されていた深川富岡八幡宮の大祭が12年ぶりに行われました。しかも、大祭当日は雨で、4日も順延されての開催ということもあり、待ちに待った大祭にお祭り好きの江戸っ子が詰めかけます。
そこにさらに不運が重なります。午前10時ごろ、一番人出の多い時間帯に、一橋徳川家の御座船が隅田川を通ることに。そのため、一時的に永代橋の通行が禁止されます。一橋徳川家の船が通り過ぎ、規制が解除されると、さらに溢れた人だかりが一斉に永代橋になだれ込みます。この重みに耐え切れず、橋の中央部分が落下、後から後から人が詰め寄り、次々に川に転落してしまいます。440人もの死者がでる大事故になりました。

目黒に永代橋の供養塔があるわけ

この事故のあと、現在の深川二丁目あたりにあった、黄檗宗の海福寺に無縁仏が埋葬されました。
50回忌に当たる安政3年(1856年)に慰霊塔が建立されます。のちの明治43年(1910年)、目黒の現在地に移転し、慰霊塔もこの地に移されました。
深川から目黒に移転された理由ははっきりとしません。近くにある、五百羅漢像で有名な黄檗宗羅漢寺(1948年 黄檗宗より禅宗羅漢寺派として独立分派)が明治41年に目黒へと移転していることと関係があると考えられます。
目黒に場所を移した今も、江戸で起こった大事件を慰霊塔は伝えています。