安中藩上屋敷跡にたつ新島襄生誕の碑
千代田区にある学士会館のあたりに江戸時代、上州安中藩の上屋敷がありました。学士会館の南側に新島襄生誕の地を示す石碑が建てられています。新島家は新島襄の祖父である弁治が初めて安中藩の藩主板倉家に仕えています。
弁治は足軽よりも位の低い仲間(ちゅうげん)という身分から奉公を始めますが、やがてその才覚が認められ当時の藩主板倉勝明から信任を得るようになっていきました。新島家は板倉家の上屋敷内の藩士の家に住まうようになっていました。そのため安中藩上屋敷で新島襄は生まれます。
新島襄は天保14年(1843年)1月14日に生まれました。新島襄は七五三太(しめた)と名付けられます。 七五三太(しめた) の名前の由来は、生まれた日がまだお正月の松の内であり、家々がしめ縄をしていたためそれにちなんだ、というものや、新島襄の父民治に生まれた初の男子であったため「しめた!」にちなんだというものがあります。
よく知られている襄という名前は、のちの密出国の時の呼び名「ジョー」、また、米国でお世話になったハーディー夫妻からの呼び名「ジョセフ」に由来するもので、明治以降この名を自称するようになります。
新島襄は幼少期から上述の祖父弁治から熱心な指導を受け育ちます。また、安中藩主板倉勝明も好学的な人であったため、藩士の教育に力を注いでいました。添川簾斎(れんさい)や山田三川(さんせん)といった洋学者を藩士に迎えるなど、洋学教育にも力を注ぎます。安政3年(1856年)には杉田玄瑞を招き、藩士のから優秀なものに蘭学を勉強させます。そのうちの一人に新島襄も含まれています。新島襄は家族の教えや藩の方針もあり洋学への興味を深めていきます。
函館への遊学、密航へ
安政4年(1857年)、元服をむかえた新島襄は新しい藩主勝殷(かつただ)に従えます。その後も職務のかたわら、洋学、蘭学の勉強に励みます。万延元年(1860年)には勝海舟が教授方頭取の海軍伝習所にも通い、数学、航海術を学びます。
そんな江戸での生活の中で、新島襄は函館での遊学のチャンスを得ます。開港の地である函館で洋学研究、英字修学が目的でした。元治元年(1864年)4月21日、41日間の航海の末、函館に到着しました。
函館では函館五稜郭の設計、築造を行った武田斐三郎の私塾に入塾、また、ロシア領事館付の司祭ニコライの家に住まい、英語を勉強します。新島襄はこうした函館での生活を送るうち、海外へ出たいという思いを強くしていきました。 元治元年(1864年)6月14日 、イギリス人商館に勤めていた書記、富士屋宇之吉の助けにより商船ベルリン号に乗船。海外へと密航しました。新島襄の「航海日記」を見ると、その当時の決死の思いがひしひしと伝わってきます。
築島におけるポルタの家の辺へ行くと、その辺にある小さな家で、或る人がせきをした。そこで彼が私の履物の音を聞き、私を見ることを恐れたので、私は雪駄をぬぎすて、足袋はだしになって、宇之吉の部屋へ忍び入った。そして雪駄の事を宇之吉に話すと、彼はす早く外にとび出し、その雪駄を取って来た。(中略)ひそかに裏口から荷物を背負って外に出て、岸に繋いである小舟に乗移り、宇之吉が楫をかき、私は頬かむりをして舟に臥していた。
給士として働きながら乗客に英語を教わり航海を続ける新島襄。7月1日に新島襄を乗せたベルリン号は上海に入港します。ベルリン号は日本へ戻るため、艦長の紹介でアメリカ商船ワイルドロヴァー号に移ります。翌慶応元年(1865年)6月17日ついにボストン港へと入港。商船の所有者であったハーディー夫妻をはじめ多くの支援を受け、10年間勉学をつづけました。
新島襄の帰国とキリスト教の布教
渡米10年ののち、明治7年(1874年)、新島襄はついに日本への帰国を果たします。中仙道を経て上州安中の父母が待つ家で、実に10年ぶりの再会を果たします。安中市にはこの時に新島襄の父母が住んでいた家が移築して残されています。
日本の文化発展のため、キリスト教の考えをもとにした学校の設立を胸にして帰国。約三週間程度の滞在でしたが約30名の信仰者を得ました。
その後、新島襄は京都に私塾同志社英学校を開校。現在の同志社大学の起源となっています。
参考文献
- 渡辺実著/新島襄
- ゼー・デー・デビス著/新島襄先生伝
- ドナルド・キーン著/続百代の過客 上
- 木村昌人編/日本史百科 外交