丸の内の地名の由来-大名小路からビジネス街への変遷

丸の内の地名の由来-大名小路からビジネス街への変遷

丸の内の地名の由来

日本有数のビジネス街として知られる千代田区丸の内。地名の由来はまさに江戸城の濠で囲まれた城内であったことにあります。そのため、丸の内、という地名は日本全国の城下町に複数見られます。

丸の内の「丸」は、本丸、二の丸、三の丸など、城を構成する区画の事です。曲輪(くるわ)」、「郭(くるわ)」とほぼ同意義で、単に「丸の内」、「御曲輪内」といった場合、そのまま城内を表します。

もともと鎌倉時代や室町時代に作られた城は大半が山城でした。平地が取りづらい山城で、城の区画を作るとどうしても曲がったり、小さな円形になります。おそらくそのことから城の区画を「丸」や「曲」といった曲線をイメージする言葉で呼び始めたと考えられます。

江戸城の縄張りと大名小路

現在の丸の内エリアはごく一部であって、当然江戸城のすべての城内に当たるわけではありません。江戸は街全体を堀で囲み、城内に武家地、商業地を配置した大城塞都市といえます。外曲輪に当たるエリアを城内と考えると、江戸城の丸の内、城内は東は隅田川、北は神田川、西は市ヶ谷、四谷といった現在も外堀が残るあたり、南は溜池から虎ノ門、新橋、浜離宮までと実に広大。外周16キロメートルで、秀吉の大阪城の2倍に当たります。

延宝三年江戸全図
永保三年江戸全図。神田川、外堀、溜池で囲まれたエリアが丸の内に当たる

広い城内にあってなぜこのエリアを丸の内と言うのか。武家地はもともと江戸時代に町名がついておらず、明治以降に町名がつけられます(隼町の地名の由来-家康と鷹狩)。丸の内のあたりも江戸時代は大名小路と呼ばれ、武家屋敷が広がっていました。

また、前述の通り、江戸縄張りがこのように広大になったのは3代家光の時のことです。家康による造営の頃の江戸城は外曲輪はまだできておらず、城内といえば大手前、大名小路(現丸の内エリア)、西の丸下、三の丸、西の丸、本丸、吹上、北の丸を指したと思われます。江戸時代からの感覚としての城内(丸の内)に当たることや、大名屋敷のエリアであり地名がなかったことから、この辺りに丸の内、という地名をつけるのが適切だったのではないでしょうか。「丸の内」は昭和4年に入り始めて町名として登場します。

武州豊嶋郡江戸庄図
寛永9年(1632年)ごろの江戸

上述の通り、江戸時代の丸の内には多くの大名屋敷が密集しており、大名小路と呼ばれました。関ヶ原の戦いを境に、家康に恭順の意を示す大名が増えていきます。こうした大名たちはその意を示すために江戸に自身の屋敷を構えることを家康に申し出ます。しかし、江戸は当時、十分な敷地が不足していました。そこで大名自身が日比谷入江を埋め立て、屋敷を建てていきます。日比谷入江が広がっていたのが現在の丸の内あたりでした。大名自身が埋め立てたとは言っても、土地は当然家康のもの。それでも大名たちは恭順の意を示すために土地を自ら埋立、二心がないことを示すために永住用の豪華な屋敷を建てていきました。こうして江戸時代の丸の内は大名小路と呼ばれる大名たちが多く住む街になっていきました。

明治以降の丸の内

明治に入り、廃藩置県が行われ、大名としての地位が失われます。幕府もないため、江戸の大名屋敷も不要に。大名小路も主を失った屋敷であふれ、朽ち果て、行き倒れや、乞食同然の人がいる、すたれた町になってしまいました。

明治政府はこうした大名小路に目を付けます。宮城となった江戸城に近いことや、大名屋敷の建物が、兵舎に転用できるため、ここに軍の設備を作ることにしました。こうして丸の内は兵士の町になっていきました。

明治初期の頃は、反乱を抑えるなど、対内的な役割を持っていた軍隊ですが、やがて対外的な意味合いを大きくしていきます。軍備が拡張されるようになると丸の内の施設では手狭になっていきます。そのため、より広い土地がある大名の中屋敷へと移転することになりました。

移転の資金集めのため、丸の内の軍施設は売却されることになりました。しかし、地価の下落にかかわらず、売値が高いこともあり、なかなか売却がうまくいきませんでした。その中で、当時の評価額よりも高い額で購入したのが三菱の社長、岩崎弥之助でした。払下げ金額は128万円。当時の陸軍の年間予算の10分の1に匹敵する額でした。こうして、約8万4千坪の広大な敷地は、明治23年(1890年)に払い下げられ、三菱が原と呼ばれるようになりました。三菱は丸の内を一大ビジネス街にすることを画策。最初の建物の設計をジョサイアコンドルに依頼します。明治27年(1894年)にレンガ造りの三菱1号館が竣工。その後もレンガ造り建物が次々と作られ、一丁倫敦と呼ばれる町並に生まれ変わります。こうして丸の内は大名小路からビジネス街へと大きく舵を切っていくことになりました。

ジョサイアコンドル
三菱一号館内のジョサイアコンドルの像

参考文献

  • 竹内誠編/東京の地名由来辞典
  • 江戸絵図が語る丸の内三百年
  • 東京都千代田区丸の内三丁目遺跡
  • 三菱地所/一丁倫敦と丸の内スタイル
  • 歴史群像名城シリーズ 江戸城
  • 歴史群像 図説城造りのすべて