東京の街づくりの原点-道三堀跡

東京の街づくりの原点-道三堀跡

江戸入城すぐに作られた運河、道三堀

千代田区新大手町ビルヂング脇の道に案内板があります。案内板は道三堀にかかっていた、道三橋跡を示すものです。

家康が入城したころの江戸は江戸城近くまで日比谷入り江が入り込んでいました。現在の銀座、東海道が走る辺りは江戸前島といって、岬状になっていました。道三堀はそんな江戸前島の付け根を横断する形で開削されています。道三堀の起点は和田倉門の辰ノ口(千代田区丸の内1丁目)です。そこから現在の永代通りに沿って、冒頭の道三橋跡を経由し、一石橋付近で平川(現在の日本橋川)と合流します。

一石橋から見た日本橋川

道三堀が開削されたのは1590年代の初め、まさに家康が江戸に入城してすぐの事です。家康が入城した頃の江戸城は関西の城と比べて大変に貧弱だったようです。

江戸は遠山の居城にて、いかにも麁想、町屋なども茅ぶきの家百ばかりも有りかなしかの体、城もかたちばかりにて、城の様にもこれなく
「聞見集」石川正西

家康は居城となる江戸城の改修と並行して、道三堀をはじめとする水運を整備しました。

画像中央をクランク状に通るのが道三堀。画像は寛文10年(1670年)刊の新版江戸大絵図

道三堀の開削が入城初期に行われた理由

上述の通り、道三堀の開削は家康が江戸に入城した初期の段階で行われました。このように早い段階で道三堀が作られたのには以下の理由があると考えられます。

  • 江戸への生活物資、建築資材の輸送の輸送のため

江戸は行徳の塩や、江戸前の水産物以外の資源を持たない土地でした。そのため町を作るためには生活に必要な物資や、建築資材が必要になります。道三堀は同じ時期に開削された小名木川とつながり、行徳で生成された塩を運ぶ運河としても機能を果たしたと考えられます(江戸時代の塩の道-小名木川)。

道三堀は建築資材の輸送としても使われます。道三堀開削により、江戸城直下まで船による運搬が可能になると、道三堀沿岸に築城用の材木の揚場が現在の東西線大手町駅のあたりに誕生します。この周辺に材木屋が集まり材木町を形成していくことになります。

  • 市街地を形成するため

家康が入城した当時の江戸は、複数の河川が流れ込む低湿地が多く存在していました。そこに商人、職人を住まわせる町を形成していくこととなります。低湿地に町を造成していくために、排水を行い、盛り土をして土地を造成していくことになります。その排水のための水路としても道三堀が機能したと考えられます。道三堀開削により出てきた堀土は市街地造成に利用され、一石二鳥の働きをすることとなりました。

和田倉から見た道三堀跡

このように江戸入城初期に作られた道三堀には物資が集まり、江戸最初の町家が形作られていきました。定期的に市場が開かれた四日市町、運送業者が集まる船町、そして上述の材木町など、道三堀を起点として江戸の初期の町ができていきました。

江戸、東京の発展はまさに家康の作った道三堀からスタートしました。

参考資料

  • 鈴木理生著/江戸の川東京の川
  • 千代田区/新編千代田区史
  • 鈴木理生編著/江戸・東京の川と水辺の事典