日本橋の名水-白木屋の井戸

日本橋の名水-白木屋の井戸

江戸の名水、白木屋の井戸

東海道、日本橋のそば、COREDO日本橋の裏手に「名水白木屋の井戸」の碑が移築再現されています。現地の案内板によれば、この井戸は正徳元年(1711年)、白木屋(現東急百貨店の全身)創業家二代目の大村彦太郎安全が私財を投じて掘ったものと伝えられています。井戸から沸き出した水は名水と言われ、付近の住民、諸大名の用水として長く使われました。

江戸時代の井戸水、名水と上水

徳川家康が入城した当時の関東は入江が入り込み、湿地帯が広がる漁村でした。埋め立てにより土地を広げましたが、そのような土地では当然飲料水に苦労します。井戸を掘っても、飲料には適さない、海水混じりの水しかでません。また、河川の水も潮の干満が及び、飲料には適さないものでした。

江戸城下に水を供給するための手段として、潮の干満の影響がない場所から人工の上水を引き込むため、神田上水や玉川上水が引かれたことは有名です(江戸初期の名残を今に-神田上水跡)。

そんな江戸城下でも例外的に名水と言われる井戸や湧水が何箇所かありました。御茶ノ水の地名の由来でも知られる高林寺などの急崖の中腹や、段丘崖から自噴するもの、江戸前島など古くから陸地であった微高地上に掘られた井戸です。

大村彦太郎安全が掘った井戸は後者と思われます。地表から9メートル程掘り進んだ「青へな」と呼ばれる地層に溜まる中水を汲み取ったものです。その後井戸掘りの技術が進み、青へなの下の岩盤層を貫いて、地下水層まで達する掘抜井戸が享保7年(1722年)ごろから見られるようになります。

白木屋と大村彦太郎安全

地表から9メートルも掘り下げる井戸の工事は大変なことだったようで、莫大な資金がかかります。私財でこの工事を行なった彦太郎安全とはどのような人物だったのでしょうか。

彦太郎安全は白木屋の創業者、大村彦太郎可全の2代目として生まれます。初代である、大村彦太郎可全は27歳で江戸に上り、日本橋二丁目に小間物店を開業します。

商内(あきない)は高利をとらず正直によき物を売れ末は繁盛

初代彦太郎可全の大衆奉仕の方針を、2代目彦太郎安全も引き継ぎ、白木屋を江戸有数の呉服店へと成長させていきます。

白木屋の井戸が掘られる少し前の宝永5年(1708年)、二代目彦太郎安全によって定められた「お家式目」。年齢などによって服装を細かに規定し、事業の発展とともに豪華な身なりになっていくことの抑止を図ったものです。ここからも彦太郎安全の質実な性格を垣間見ることが出来ます。

白木屋は顧客本位な商法で、昭和まで続きますが、戦後、東急の傘下に入り、300年続いた白木屋ののれんは途絶えてしまいます。白木屋の井戸もまた、石碑だけを今に残し、当時を伺い知ることは出来ません。

参考文献

  • 伊藤好一著/江戸上水道の歴史
  • 秋田裕毅著/井戸
  • 吉田豊編訳/商家の家訓
  • 鈴木理生著/江戸の都市計画