恵比寿の地名の由来-日本の近代化を支えた三田用水跡

恵比寿の地名の由来-日本の近代化を支えた三田用水跡

恵比寿の地名の由来

恵比寿という地名は江戸時代からある地名ではありません。その由来は今も知られる「エビスビール」。明治20年(1887年)、日本麦酒醸造会社が創立され、エビスビールの製造を現在のエビスガーデンプレイスの地でスタートします。日本麦酒の要望により、明治34年(1901年)、工場のすぐ脇を走っていた、日本鉄道品川線(品川-赤羽)にビール輸送のための新駅が作られます。その駅名は日本麦酒が製造していたビールにちなみ「恵比寿」となります。恵比寿の名前が徐々に浸透していき、恵比寿、という地名になりました。

エビスビールと三田用水

実はこの恵比寿の地名、江戸時代に作られた用水路と関係しています。江戸時代、日本麦酒の工場が作られるあたりには三田用水という用水路がありました。

安政5年(1858年)以降、外国人居留地ができるようになり、在留する外国人が増えてきます。彼らの生活品としてビールも輸入されるようになりました。しかし、日数や運賃コスト、また、赤道を超えることによる品質劣化などの問題から、日本国内でのビールの製造が試みられるようになっていきます。

明治に入ると、商業的なビール造りがますます盛んになっていきます。そんな中、明治20年(1887年)、に創立したのが日本麦酒醸造会社でした。日本麦酒が工場の地に選んだのが三田村。三田用水が利用できる、また、大消費地東京に近いという利点を生かしたものでした。ビールの製造工程には大麦の精選(ゴミなどを取り除く)や浸漬(大麦を水に浸す)、洗浄やボイラー用など多くの水を使います。そのため、三田用水の水が利用できるこの地はまさにビール製造の適地でした。

(エビスビール記念館の展示、かつての工場の様子。ビール製造に利用する用水の貯水池が確認できる)

江戸の発展と三田用水

恵比寿から少し離れた港区の白金台に、三田用水路跡の遺構が残されています。三田用水はそもそも、寛文4年(1664年)、中目黒、大崎、三田といった江戸西南部への配水のため、中村八郎右衛門、磯野助六により開削された三田上水が起源となっています。

三田上水は玉川上水を分水したものです。江戸市中の飲料水として利用される水ですが、流路となる田畑への分水の申し出が相次ぎ、幕末までに30以上の分水路が設けられることになりました。幕府は江戸での生活用水が不足することが無いよう、玉川上水の水量減少の際は分水を制限するなどの措置が取られました。

(目黒筋御場絵図にみる三田上水の分水口。谷底を避けるために大きく南に迂回した玉川上水の蛇行部分からさらに南に分水している。)

そうした背景から、各分水路への給水は十分なものではなかったようです。三田上水も例外ではなく、上水利用に関して利用する村々で組合を結成し、番水を行っていました。番水とは時間や日程などあらかじめ定め、それに応じて村々に給水、止水をすることです。常時水が得られるわけではありませんが、争いを避け公平に上水が活用できるようい考えられた仕組みでした。

享保7年(1722年)、三田上水を含む4上水(三田上水、青山上水、本所上水、千川上水)が廃止となりました。その理由は定かではありませんが、室鳩巣(むろきゅうそう)という朱子学者の上申による、という説があります。室鳩巣は、江戸の火災と水道の関係性について意見しています。陰陽学や、他の都市での事例などを結び付け、水道を廃止することで火災を防ぐという内容で、現代から見ると信ぴょう性がある意見とは言えません。

廃止となった三田上水ですが、灌漑用水として利用していた村々から給水の継続願が出されます。これを受け、享保9年(1724年)給水許可がでます。

三田上水には、万治年間(1658-61年)に開削された細川用水が並行する形で流れていました。この2つの流れを一筋にする形で三田用水が整備されます。

先にあげた目黒筋御場絵図では細川和泉守、と書かれた屋敷まで三田用水が続いていることがわかります。目黒筋御場絵図が書かれたのは1805年。おそらく肥後細川藩8代藩主、細川立禮の屋敷であると思われます。

江戸末期、明治の日本と三田用水

安政4年(1857年)、幕府は現在の目黒区三田のあたりに火薬製造用の水車と、火薬庫を作ります。火薬を生成する際に必要な機械の動力として、水力が利用されました。三田用水は舌状になった台地の淵を通る箇所が多く、水路とその周囲に高低差がある地形が続きます。流れる水で水車を回すには、この地形が有効であったのでしょう。そのため三田用水には明治に入り、多くの水車が作られます。明治40年(1907年)には49か所にも上ります。

明治に入ると陸海軍の火薬製造所として新しく目黒火薬製造所が建設されます。利用される機械は蒸気力などを利用したものに変わっていきますが、用水はボイラーや、冷却用などに利用されました。

恵比寿の地名の由来となった日本麦酒も三田用水の恩恵を受けるためこの地に創立しました。江戸時代から農業用水、工業用水と長く利用されていた三田用水ですが、周辺の都市化に伴いその役目を終えています。三田用水は暗渠となっており、その流路に作られた道にはかつての欄干と思われる遺構も確認できます。

東京に残された江戸時代に由来する地名

この記事で紹介した以外にも、東京には江戸時代に由来する地名が多く残されています。

その他の地名の由来をみる

参考文献

  • 小坂克信著/近代化を支えた多摩川の水
  • 品川歴史館資料目録 三田用水普通水利組合文書
  • 伊藤好一著/江戸上水道の歴史
  • 東京百年史 第一巻
  • キリンビール株式会社/図説ビール
  • 川島智生著/近代日本のビール醸造史と産業遺産
  • 菊池俊彦編/図譜江戸時代の技術