関口、水道の地名の由来
文京区に「関口」という地名があります。地名の由来は諸説ありますが、江戸初期に造られた小石川上水(のちの神田上水)へ水を引き入れるため、神田川に造られた堰に由来するという説があります。
水道の地名もまた、この小石川上水(神田上水)に由来します。なくなった地名も入れると関口町、関口水道町、小日向水道町、水道端町、水道橋など、この辺りには神田上水に由来する地名が多く残ります。
小石川上水(神田上水)の歴史
神田上水の原型、小石川上水
小石川上水(神田上水)は家康からの命を受け、家臣大久保藤五郎により作られました。上水が作られた時期には諸説あり、天正日記の記述に由来する天正18年(1590年)という説や、慶長見聞集の記述に由来する慶長8年(1603年)という説があります。いずれにしても家康が江戸に入城した早い段階で上水道が整備されていることに変わりはありません。
この頃整備された上水は井の頭池、善福寺池、妙正寺池という三つの池を水源とする、自然河川を水源としました。扇状地である武蔵野台地は地下水を含む地層(帯水層)を持っており、それが標高50mあたりの傾斜がなだらかなところで湧き水となって池を作ります。家康が入城したころ、こうした池を水源とした神田川、妙正寺川、善福寺川、江古田川が合流し、日比谷入江に流れ込み、平川と呼ばれていました。また、これらの河川が合流することから落合という地名が生まれています。
江戸城付近を流れる平川は河口も近く、海水交じりであり、飲料水としては適しませんでした。そのため、海水の混じっていない河川の途中に堰を作り、上水へ分水する必要がありました。それが小石川上水です。
小石川上水整備の功により、大久保藤五郎は「主水」の名を拝命します。主水は通常、「もんど」と読むのですが、水が濁らぬよう、「もんと」と読ませたそうです。
神田上水の完成
江戸初期の上水として利用された小石川上水でしたが、その後江戸の人口の増加や、本郷台の開削による平川(神田川)の流路変更などで、水源や給水エリアを変え、神田上水、と呼ばれるようになります。神田上水という名が資料に見られるようになるのは寛文5年(1665年)。1654年に玉川上水、1659年に本所上水ができるなど多くの上水が整備される中で、神田エリアに給水をする上水に対して神田上水、という呼ばれ方になっていったと考えられます。
関口で取水された神田上水は、小日向台地南端を経て、後楽園(水戸藩邸内)に流れ込みます。後楽園から掛樋(水道橋)を渡り、江戸城下の町々に至ります。
小石川上水から発展的に整備されていった神田上水。これによって駿河台、小川町、大手町に生活用水が給水されました。神田上水の余水は呉服橋付近で外堀に排水されます。その余水を舟に汲み、江東エリアで販売する水売りもおり、神田上水は江東エリアの生活用水にもなっていたようです。
現在に残る神田上水の流路
神田上水は1901年、水道としての役目を終え、暗渠となります。しかし、現在でもその流路を道路の形に見ることができます。
上図は神田上水の上に作られた道に線を引いたものです。関跡(関口)から江戸川公園を通り、片側一車線の道路に入ります。これが小石川上水(神田上水)のかつての流路です。
実際に歩いてみると、神田上水の跡の道は直線ではなく、台地に沿って曲線が多いことがわかります。文京区総合福祉センター前には、建設時に発掘された水路の石垣を見ることができます。
かつての水戸藩邸、小石川後楽園内には神田上水跡が園庭の流れとして今も残されています。
東京に残された江戸時代に由来する地名
この記事で紹介した以外にも、東京には江戸時代に由来する地名が多く残されています。
参考文献
- 野中和夫編/江戸の水道
- 神田上水石垣遺構発掘調査報告書
- 東京百年史第一巻
- 伊藤好一著/江戸上水道の歴史
- 市川寛明編/一目でわかる江戸時代