江戸時代の年末年始-旧暦と大晦日、正月の様子

江戸時代の年末年始-旧暦と大晦日、正月の様子

江戸時代の年末年始-旧暦と大晦日、正月の様子

霞ヶ関、江戸名所百景に描かれた正月

上図は江戸名所百景に描かれた、山下町日比谷外さくら田です。
現在の日比谷あたり、凧揚げや羽子板、松といった正月が連想されるものが描かれています。江戸時代の年末年始はどのような様子だったのかが垣間見えます。

江戸の暦と大晦日、正月

江戸時代の年末、年始は現在の暦で大体1月末になります。現在は太陽の動きをもとにした暦(太陽暦)で1年を365日としています。一方、江戸時代は月の満ち欠けをもとにした暦(太陰暦)を採用していました。月の満ち欠けは29.5日で新月から次の新月へと推移します。また、江戸時代は立春に一番近い新月の日を正月としていました。月の周期は、太陽の周期(太陽暦)と異なる点、毎年立春に近い新月を正月としていた点から、江戸時代の正月は新暦でいうと「大体」1月末だったということになります。
また、大晦日の「晦日」は末日のことで、晦(つごもり)は月隠(つきごもり)、月が隠れる月末そのものを指します。一年が終わる晦日ですので、「大晦日」と呼ぶようになりました(双葉社 旧暦で読み解く江戸)。
このように江戸の人々は月を見て日にちを知ることができていました。しかし月の満ち欠けの周期は29.5日です。0.5日という日にちの帳尻を合わせるため、一ヶ月が30日の大の月と、29日の小の月を作り、1年の平均が29.5日になるように工夫していました。
一月29.5日の暦ですと、季節の循環である365日の太陽暦と比べ11日短いことになります。これがそのままだと季節のズレが出てきます。そこで3年に一度、閏月として一年が13ヶ月ある年を設けました。このようにして、太陽の周期と帳尻を合わせていました。
しかし、これでも農業が根幹の産業であった当時にすると、一年が少しずつ短くなる(季節の周期にそくしていない)ことは許容できない誤差だったようです。そこで太陰暦とは別に二十四節気という太陽暦を併用しました。
二十四節気は月の満ち欠けと関係なく、季節が一巡する365日を二十四等分し、名前をつけたものです。二十四節気の一つである、立春が太陰暦の正月に近くにあたります。今でも正月に新春というのはこの名残です。

江戸時代の大晦日の様子

正月の準備をする年末は今も昔もかわらなかったようです。羽子板、しめ縄など正月用品が並ぶ市が神社仏閣で開かれました。大晦日になるとそれらを捨値で販売する、捨て市が開かれたようです。
また、今も続く年越し蕎麦が食べられるようになったのも江戸時代のこと。起源は諸説あり、忙しい商家で月末に食べられていた三十日蕎麦が起源とする説、節分(二十四節気の季節の変わり目)に食べられていた厄落としの蕎麦が年越し蕎麦とする説などがあります。冬と春の変わり目である立春前の節分は、旧暦では大晦日に近くなります。ここで食べられていた蕎麦が年越し蕎麦となったという説です。いずれにしても、江戸時代、蕎麦は脚気の予防に効くと言われていたこともあり、普段からよく食べられていたようです。

江戸時代の正月の様子

現在の正月に見られるような初詣は江戸時代、あまり一般的ではありませんでした。正月は年神様を家に迎える日であったからです。門松は年神様が家に来るための目印としてあります。年神様は新しい年の命を人々に与えると考えていました。つまり、正月に一斉に年をとっていたわけです。正月は年神様をお迎えし、年をとれたことを祝う日でした。
初詣に近いことが行われたのは江戸の中期以降です。年神様は恵方から来ると考えられていました。年神様が来るのを待たず、こちらから会いに行くために恵方の神社仏閣に参拝したのが初詣の原型と考えられます。
正月の過ごし方は基本寝正月だったようです。当時は売掛が一般的で、毎月月末に売掛金を回収します。年末はその年の売掛金回収の最終日ですから、商人は大忙し。正月はゆっくりし、初売りは2日からが一般的でした。
一方武士は正月から将軍家、主君への挨拶など、一日中大忙しです。そんな挨拶回りを一目見ようと武家地では野次馬の姿も見られたようです。