国会議事堂に隣接している国会前庭。憲政記念館や、日本水準原点などがある前庭は一般公開されており、公開時間内であればだれでも利用することができます。前庭があった場所は江戸時代、彦根藩井伊家の上屋敷があった場所です。前庭内には江戸時代に名水として知られた桜の井が移築して残されています。
江戸の名水「桜の井」と江戸時代の井戸
国会前庭にある桜の井は江戸の名水として知られていました。現地案内版によると、縦約1.8m、横約3mの石垣で組まれた大井戸で、幕末当時江戸城を訪れる通行人に豊富な井戸水を提供していたと伝えられています。江戸時代を通して名水として知られていたようで、天保14年(1843年)に刊行されている東都名所に「外桜田弁慶堀桜の井」として描かれています。
埋立地が多かった江戸の町は、井戸を掘っても塩気があり、飲料水として利用できるものではありませんでした。飲料水として利用できる井戸水を得るには、享保年間頃(1716年~36年)から登場する、掘抜井戸という深層部の地下水まで掘り当てる井戸の登場を待つ必要がありました。名水として知られる白木屋の井戸は掘抜井戸です。
江戸時代前期でも例外として、崖からの湧水や、高台に掘られた井戸水が名水として知られていました。桜の井が掘られたのも武蔵野台地上の高台です。
外桜田と加藤清正
桜の井を掘ったのは初代肥後藩の藩主、加藤清正と伝えられています。桜の井がある国会前庭は、慶長年間(1596年~1615年) 加藤家の上屋敷がありました。
加藤清正は豊臣秀吉の子飼いの武将として知られています。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い以降、東軍側として九州の西軍武将と戦っていますが、豊臣秀吉への忠誠は生涯のものであったといわれています。おそらく家康、幕府にとっては目の上のたんこぶ的な存在であったと想像できます。
慶長16年(1611年)、加藤清正が亡くなると、その子の忠広が加藤家を相続。忠広がわずか11歳の時でした。忠広が加藤家を相続すると、幕府からの加藤家の内政への干渉が強まります。その結果内紛が発生し、忠広の力不足が目立っていきました。
さらには幕府の跡目争いにも巻き込まれていきます。2代将軍秀忠の子として、3代将軍となることが約束されていたのが家光でした。しかし、秀忠が溺愛していたのは、家光の弟である忠長。そのことから、幕臣や大名の間では忠長が将来将軍職を譲られるのではないかという見解も生まれていました。忠長に好意を寄せる忠長派ともいえる筆頭が加藤忠広でした。
将来を期待された忠長でしたが、行き過ぎた行動が続き蟄居を命じられ、政治の実権は家光が握っていくことになりました。家光は忠長派の弾圧に乗り出しました。こうした対幕府政策の見誤りや、内紛による弱体化などにより、加藤家は寛永9年(1632年)に取り潰しとなってしまいました。
加藤家取り潰しの同年、加藤家上屋敷は彦根藩井伊家の上屋敷となりました。そして幕末まで続き、大老となった井伊直弼は安政7年(1860年)にこの屋敷から外桜田門に向かう途中、水戸藩士らに襲撃されています。
時代を見守り続けた桜の井はそのまま時代を重ね、昭和43年(1968年)の道路拡張工事の際に、当時の位置から現在の位置に移築されています。
参考文献
- 歴史群像名城シリーズ「熊本城」
- 三省堂/江戸東京学事典
- 荒木精之/加藤清正