御殿山に作られたイギリス公使館
桜の名所の幕末
品川宿にほど近い御殿山エリア。地名としての「御殿山」はありませんが、御殿山トラストタワーなどにその名を残しています。御殿山の名前の由来は将軍の御殿があったことにあります。その名の通り、江戸時代には鷹狩りの休息所、また、参勤交代の大名の接待のための御殿が存在しました。また、 寛文年間(1661年~1673年) には桜が植えられるようになり、桜の名所として有名になっていきました。(時代とともに姿を変えた-桜の名所御殿山)
幕末になると桜の名所の御殿山は台場建設のための土砂採石場として利用されます。現在の品川女学院から、御殿山トラストタワーの庭園のあたりは、土砂採石場の名残で窪地となっています。
公使館建設地へ
幕末、開国の波はさらに御殿山を変えていきます。5か国との通商条約が結ばれると、寺院などに仮の公使館が設けられます。しかし、公使館員を狙った殺傷事件が多発し、諸外国から安全な公使館の建設を求められます。こうして万延元年(860年)、御殿山にイギリス、フランス、アメリカ、オランダの4か国の公使館建設の計画が持ち上がりました。のちに焼き討ち事件の舞台となるイギリス公使館も御殿山の地に建設されることとなります。
地元品川宿からの反対意見
御殿山公使館地図といった資料を基にした、おおよそのイギリス公使館の建設予定地は以下です。
現在の北品川郵政宿舎があるあたりに建物が作られていたと考えられます。現在は東海道新幹線、山手線などにより分断されていますが、線路を越えたトラストタワー庭園の向かいあたりまでがイギリス公使館の敷地であったと推察されます。図中で示した東海道とかなり近く、反対意見が品川宿役人からも出されています。異人館取建地之儀ニ付内密奉歎願候(いじんかんとりたてちのぎにつきないみつたんがんたてまつりそうろう)という願書には、
海陸御全備之御場所
異人館取建地之儀ニ付内密奉歎願候
お台場と御殿山は対となる場所で、東海道も通り、火薬蔵もあるため海陸を防備するうえでの軍事的要衝であること
御殿山御植付之桜木名勝之御旧跡をも可及減失哉
異人館取建地之儀ニ付内密奉歎願候
御殿山に植え付けられている桜が失われてしまうこと
高貴之御方々様御通輿、御旅館迄四方眼下ニ見渡シ候様可罷成哉
異人館取建地之儀ニ付内密奉歎願候
東海道を通行する高貴な方々が見下ろされてしまう
万一非常之時節、前後ニ途を失ひ可申
異人館取建地之儀ニ付内密奉歎願候
品川宿は人家が立ち並び、東は海で、西に公使館が出来ては非常時に非難ができない
就中諸家様勤番之武士日夜多く入込、酒食いたし候間、酔狂ニ乗シ何様之異変出来可申も難計
異人館取建地之儀ニ付内密奉歎願候
品川宿で外国人が飲み食いするようになり、武士と衝突する可能性がある
といった理由から御殿山の大使館建設に反対しています。こうした反対の声もむなしく、文久元年(1861年)11月、イギリス公使館の建設を皮切りに各国の公使館建設がスタートします。
アーネストサトウの手記に見るイギリス公使館
イギリス外交官のアーネストサトウは手記の中で、建設されつつあるイギリス公使館について書き記しています。
この敷地に建設中のイギリス公使館は、一棟の大きな二階建ての洋館で、海に面した高台に建ち、遠方からはそれが二棟のように見えた。大変見事な材木が工事に使用され、部屋はいずれも宮殿に見えるような広さをもっていた。
床は漆塗りで、壁面には風雅な図案を施した日本紙が張られていた。その建物の後ろの下手に日本係書記官の住む平家が建ち、もう一つの敷地に補助官や通訳生の家を建てることになっていた。
外交官の見た明治維新-上
豪華な洋館建築の大使館がほぼ完成間近に迫っていました。
攘夷の対象となったイギリス公使館
上述の手記の中で、アーネストサトウは以下のように続けます。
フランスやオランダの公使館の建設も、ある程度工事が進捗していた。しかし、こうした場所に外国人が居住するのを日本人がきらっていることは、われわれにもわかっていた。役人や武士の階級は、台場の後方を見渡せる、こんなにも見晴らしのよくきく場所に外国人を住まわせることに反対していたし、一般庶民も、以前自分たちの遊楽地であったこの場所が「外夷」の居住地に変わるのを憤慨していた。したがって、この建物をいち早く完成して、早急に引き移ってしまうことが、政策上必要と考えられた。
外交官の見た明治維新-上
アーネストサトウの懸念は現実のものとなってしまいます。江戸で尊王攘夷の気運が高まる中、高杉晋作ら長州の志士は横浜での外国公使襲撃を計画します。計画は未然に発覚し、後の最後の長州藩主、毛利定広により説得され中止、高杉晋作らは謹慎の処分となります。そして、謹慎中に「御楯組」を結成します。
百折不屈、夷狄を掃除し、上は叡慮を貫き、下ハ君意を徹する外他念これ無し、国家の御楯となるべき覚悟肝要たり、
御楯組血盟書
この血盟書が作成されてから約1か月後の文久2年12月12日(新暦1863年1月31日) 、イギリス公使館は高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、志道聞多(井上馨)、久坂玄瑞ら、長州藩志士13名により、焼き討ちされてしまいます。
13名は品川宿の旅籠屋相模屋(土倉相模)に集合。
イギリス公使館の堀を乗り越え、館に侵入します。その後戸板や建具を重ね、爆薬に火をつけ公使館を焼き払いました。攘夷の熱を保ったまま、時代は幕末へと大きく進んでいきました。
参考書籍
- アーネストサトウ著/外交官の見た明治維新-上
- 港区立港郷土資料館/江戸の外国公使館
- 品川区歴史館特別展図録/明治維新 そのとき品川は
- 岩下哲典監修/幕末維新の古文書