一ツ橋門の石垣跡
東京メトロ東西線、竹橋駅のそばに「一ツ橋」があります。一ツ橋がかかっている日本橋川護岸に江戸時代の石垣が残されています。
以下の古地図は武州豊島郡江戸庄図の拡大です。
一ツ橋を渡った先、枡形の門があることがわかります。これが一橋御門で、今見ることができる石垣はこの枡形の石垣の一部と推測できます。一ツ橋のたもとに御三卿の一つ、一橋徳川家の屋敷跡がありますが、こちらは案内板がわずかに残るだけです。
御三卿と一橋家
御三卿として知られる一橋家ですが、この一橋御門内に屋敷を与えられたことにその名の由来があります。8代将軍の吉宗が、将軍家の跡継ぎがいなくなる事態に備えて一門として分家したものです。元文5年(1740年)、吉宗の四男、宗伊(むねただ)に屋敷を与え、一橋家が誕生します。
享保16年(1737年)には、吉宗の次男宗武へ、田安門内に屋敷を与え独立させます。御三卿の1つ、田安家です。もう1つの清水家は、9代将軍家重が、次男重好に清水門内の屋敷を与え創設されました。
ちなみに御三卿の由来はそれぞれの官位にあります。一橋家宗伊は従三位刑部卿、田安家宗武が従三位右衛門督、清水家重好が従三位宮内卿で、いずれも三位以上の官位であり、卿の敬称がついたためです。
御三家と御三卿
御三卿とともに、将軍家に世継がいない場合、これを供給する役割を担っていた家に御三家があります。
御三家は水戸、紀伊、尾張の三家で徳川家康の実子である九男義直(尾張家)、十男頼信(紀伊家)、十一男頼房(水戸家)がその祖です。家康、秀忠、家光の三代にわたる徳川家の権力基盤強化の過程で成立しました。
ともに徳川将軍家の世継の供給という役割を担っていますが、御三家は家臣団を持ち、領地を支配する大名家です。一方御三卿は領地をもたず、賄い料としての領地を10万石与えられ、家臣団は幕府旗本からの出向でした。官位、石高としては御三家が上ですが、将軍家から賄い料を与えられているということから将軍の庶子として特別な位置にいました。
最後の将軍となった慶喜は一橋徳川家の九代当主です。慶喜の実の父は御三家の水戸徳川家九代当主斉昭でした。嘉永6年(1853年)のペリー来航ののち、将軍後継争いが起こります。御三家の1つ紀伊家の徳川慶福、御三卿一橋徳川家の慶喜の2派による争いでした。
長きにわたって国の安定をもたらした徳川家の政策でしたが、幕末の困難に当たって、争いの種となってしまいました。
(参考文献:平井聖監修 幕末明治の江戸城,「歴史読本」編集部編 徳川将軍家,「歴史読本」編集部編 徳川15代のすべてがわかる本,「歴史読本」編集部編 徳川将軍家・御三家・御三卿のすべて,別冊歴史読本 家康の江戸)