三分坂(さんぷんざか)の名前の由来
港区赤坂に三分坂(さんぷんざか)という坂道があります。三分坂の由来には諸説あります。
- 急な坂道のため、車賃を銀三分ほど値上げしたため
- 坂下にあった沼地の渡し賃が一分であったことに対して坂の荷上げ賃が三分でああったため
三分は現在の貨幣価値で百数十円ほど。実際に坂を見ると今でもかなりの勾配です。いずれの説にしても崖の際に面しており、崖下には沼地が広がっていたという当時の地形を今に伝えています。
築地塀(ついじべい)と報土寺
三分坂を見るとまず目に入る立派な築地塀。三分坂下にある報土寺のものです。報土寺は慶長19年(1614年)に赤坂一ツ木(現在の赤坂二丁目)に創建されていますが、幕府の用地取り上げにより、安永9年(1780年)に現在の地に移されています。築地塀もその当時に作られたものと伝えられており、港区の文化財に指定されています。
報土寺に眠る雷電爲右エ門
報土寺は雷電爲右エ門の墓所としても知られています。
雷電爲右エ門は明和4年(1767年)、信州小県郡大石村で生まれます。雷電が大きくなった天明年間(1781~89年)、江戸では大名の庇護のもと江戸相撲が成長していきました。
雷電はこの頃にはすでに身長六尺五寸(197㎝ほど)、体重169kgの巨体で、怪力の持ち主として知られており、20代前半で江戸に出て浦風林衛門に弟子入りします。
寛政2年(1790年)、24歳の時に初土俵をはたしていきなり優勝。その後も勝利を重ね、21年間の現役生活の中での成績は254勝10敗、なんと96%を超える勝率で驚異的な強さでした。特に張り手、突っ張り、かんぬきの三手は強烈すぎるため、使用を禁じられたという話が残っています。
報土寺と雷電の関係は、当時の住職である円意が同郷であったためとされています。そのよしみから文化11年(1814年)、雷電爲右エ門は報土寺に梵鐘を寄進しています。
この梵鐘が実に奇抜なものでした。竜頭の部分は雷電と小野川との組んだ姿。小野川は雷電とともに三大関として知られていました。鐘の中央には雷電の肖像、その上に「天下無双雷電」の文字。その異形さと、鐘楼新造の禁令にふれたことにより、鐘も取り壊し、雷電も江戸払いを命じられています。
その後江戸にもどった雷電は文政8年(1825年)に58歳で亡くなっています。華々しい成績を今に残した雷電。ゆかりの報土寺に静かに眠っています。
参考文献
- 和歌森太郎著/相撲今むかし
- 東京都港区教育委員会/港区文化財のしおり
- 山野勝著/江戸と東京の坂
- 大石学編/大江戸まるわかり事典