行人坂と大円寺
目黒駅から雅叙園に下る坂を行人坂といいます。品川区ウェブページには平均勾配が15.6%とあります。100m水平に進んだ時の垂直距離(高低差)が15.6mであることを意味しますので、かなりの急勾配です。
この坂の途中に大円寺というお寺があります。出羽三山のひとつ、湯殿山の行者である大海法印が江戸時代初期に開いた道場がその始まりと言われています。それ以来、付近に行者(行人)が多く住むようになったことが行人坂の由来とされています。
大円寺に入るとまず目につくのは、境内斜面に並んだ石仏群です。現地案内板によるとその数全部で520尊、491尊の羅漢像が並んでいます。羅漢像の多くは1781年以降に建立されたもので、行人坂の火事で亡くなった人々の慰霊のために建立されたと言われています。
大円寺が火元となった明和九年の行人坂大火
行人坂の大火は、ここ大円寺が火元となりました。1657年に発生した明暦の大火、1806年に発生した文化の大火とならび、江戸の三大大火のひとつです。1772年(明和9年)の2月、この日は強い南風が吹いており、火は瞬く間に広がりました。白金、麻布、六本木、虎ノ門、桜田門まで北東方面に次々に延焼します。その後も京橋から神田一帯、神田川を超え、神田明神、千住、浅草まで燃え広がりました。
また、同日に別の箇所、本郷を火元とする火災も発生します。こちらも本郷、駒込、谷中、根岸と延焼します。
行人坂大円寺で発生した火は翌日も燃え続けます。翌日には北風に変わり、常盤橋あたりの火が、南方面、大伝馬町、馬喰町、浜町方面に広がります。その後、大雨によりようやく鎮火。934町、幅4キロ、長さ20キロの範囲を焼き尽くします。焼死者15000人、行方不明者4000人、焼失した大名屋敷は169、橋梁170、寺院382の大被害を生みました(酒井茂之著 大江戸災害物語より)。延焼範囲は明和九年江戸目黒行人坂大火之図に詳しく描かれています。
(https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/F1000000000000049888.html)
大円寺失火の原因は放火。火事場泥棒を働いていた真秀という男が火をつけたとされています。大円寺も失火の責任をおい、行人坂の大火が発生した1772年(明和9年)から70年あまり経った1848年にようやく再興されています。行人坂の大火が発生した明和九年は他にも災害が相次ぎ、明和九年のゴロが迷惑年につながることから、安永に改元されたと言われます。
八百屋お七と大円寺
大円寺境内の阿弥陀堂にはお七地蔵が祀られています。お七地蔵のお七は落語や歌舞伎などの舞台で有名な八百屋お七です。八百屋お七の物語は数々の舞台や著作があり、話の細部には複数のパターンがあります。基本的な話の流れは以下になります。
天和(てんな)の大火(1682年12月に発生)により、家を焼け出された八百屋の娘お七は、一家で円林寺に避難生活をする。そこで出会った寺小姓に恋をし、お七と寺小姓は恋仲に。
延焼した家が再建され、お七一家は避難所である寺を出、2人は離れ離れとなる。
お七の寺小姓への思いは募るばかり。自宅が燃えればまた寺小姓と会えると、自宅に放火をしてしまう。火はボヤのうちに消し止められるが、江戸時代放火は大罪。お七は鈴ヶ森で火炙りに処されてしまう。
天和の大火をお七火事と言いますが、お七が放火をした火事ではありません。放火の原因を作った大火です。大円寺の案内によると、お七の恋人であった、寺小姓の吉三がのちに西運という僧となり、大円寺下、現在の雅叙園のあたりにあった明王院に入ったとあります。西運はお七の菩提を弔うため、浅草観音までの往復十里の道のりを鉦を叩き念仏を唱えながら参りました。一万日行を達成し、お七が夢枕に現れ、成仏したことを告げられます。そこで西運はお七地蔵尊を造りました。
明王院は明治13年頃廃寺となり、大円寺に吸収されます。そのため大円寺にお七地蔵が祀られ、大火に関係の深い寺となっています。目黒雅叙園入り口には「お七の井戸」という井戸を見ることができます。西運が一万日行の際、毎回水汲みを行った井戸とされています。
江戸の大火の原因
八百屋お七の物語の信憑性はともかく、江戸は火災が多い街でした。生活に広く使われる火、行人坂の大火も、火元が二箇所、明暦の大火も三箇所から火が上がっているように、一日に数回、小さな火災が発生していたようです。また、冬になると乾燥した強い北風がふきます。江戸のような人口密集地帯でひとたび失火すると瞬く間に広がります。こうした江戸の気象条件、特殊な都市環境が江戸の大火の原因となりました。大円寺にはこうした江戸の大火を今に伝える史跡が残されています。