新宿の地名の由来-内藤新宿追分

新宿の地名の由来-内藤新宿追分

新宿の地名の由来

東京都庁をはじめとする高層ビル群や、ターミナル駅を中心とした繁華街で東京を代表する都市と言える新宿。新宿の地名の由来も江戸時代にあります。

甲州街道に作られた宿場町、内藤新宿が現在の新宿の地名の由来です。もともと、甲州街道の最初の宿場は高井戸宿でした。しかし、日本橋から高井戸宿までの距離は四里、16キロほどありました。そのため日本橋から二里のこの辺りに内藤新宿という宿場が作られます。内藤、とつくのは信州高遠藩内藤家の中屋敷(通称下屋敷、四谷中屋敷)があったためです。ちなみにこの四谷中屋敷が今日の新宿御苑です。

内藤新宿の「内藤」がなくなり、新宿、となったわけですが、この新宿の由来にも諸説あります。高井戸宿に比べて新しい宿場であることから内藤新宿と呼ばれるようになった、というのがその一つです。

五街道と内藤新宿の起こり

内藤新宿開設以前の様子

家康が江戸に入府した1590年、江戸の町づくりが始まりました。東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道も交通網整備のため、設置されます。

中でも甲州街道は、家康領となった甲府と江戸を結ぶ街道として重要視され、まだ江戸幕府が成立する前の慶長5年(1600)に整備されます。現在の四谷駅から新宿方面に向かう新宿通りが甲州街道に当たります。

新宿通りを左右に分かれる道を見るとわかるのですが、大概の道が下り坂になっており、甲州街道が尾根沿いに作られた道であったことがわかります。おそらく甲州街道が整備される以前から尾根沿いの道があり、それが甲州街道へと発展していったものと考えられます(新宿区立新宿歴史博物館 内藤新宿の町並とその歴史)。

甲州街道が整備されると、江戸防備のため、元和2年(1615年)頃、四谷大木戸が作られます。それに合わせて、江戸に出入りする人馬を確認する、馬改番屋がおかれました。上述の通り、尾根伝いで江戸城とつながっているため、防備の面からこのような対策がされていたようです。

人馬が集う場所ですから、それを相手にした茶店などがこの頃から一定数は軒を連ねていたと考えられます。また、青梅街道への分岐点もこの辺りにありました。

新宿三丁目交差点に、新宿追分、という名前のバス停があります。追分という言葉には以下の意味があります。

もとは「牛馬を追い、分ける場所」を意味したが、
wikipedia

上記が転じて、道が二手に分かれる地点のことを追分と言うようになったそうです。まさに新宿三丁目交差点が青梅街道への分岐点「追分」でした。

交通拠点として追分、また人の滞留を生む改番所の2つがあったことから、新宿の賑わいの土台はこの頃からできていたと考えられます。

内藤新宿の開設

その後元禄11年(1698年)、内藤新宿が開設されます。「新編武蔵風土記稿」にはその起こりが以下のように記述されています。

御打入の後内藤大和守に給ひし屋敷の内を、後年裂て上地となりし頃も、萱葭原なりしを、元禄十一年浅草安部川町の名主喜兵衛及ひ浅草の町人市左衛門、忠右衛門、嘉吉、五兵衛と云者、願上て今の如く幅五間半の街道を開き、・・(中略)・・元内藤氏の屋敷なりゆへ其儘内藤新宿と名付、江戸より多磨郡上下高井戸宿まて人馬継立の驛亭とせしか、

こうして、内藤氏の屋敷跡に新宿、内藤新宿が開かれました。

江戸時代の内藤新宿全景

(新宿歴史博物館、内藤新宿模型。許可を得て掲載)

内藤新宿は江戸四宿に数えられ大変な発展を見せます。もっとも、甲州街道を通る大名はあまりおらず、高島、高遠、飯田の三藩のみでした。しかし、青梅方面から野菜や、木炭、甲州方面からブドウ、絹、また秩父からも火薬などの物資が運ばれ、追分は物流拠点として発展しました。

その後山手線新宿駅ができ、内藤、の文字は取れますが、江戸時代からの賑わいは今も続いています。

新宿追分交差点歩道のレリーフ