忠臣蔵の舞台-赤坂氷川神社

忠臣蔵の舞台-赤坂氷川神社

赤坂氷川神社と関東に広がる氷川神社

港区赤坂に氷川神社があります。素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)の三神を祭神とし、天暦5年(951年)に現在の赤坂4丁目付近の一ツ木ヶ原(人次ヶ原)に祀られました(現地案内板による)。

関東の氷川神社の総本社は埼玉県大宮にある氷川神社です。神社本庁のデータでは「氷川」の名の付く神社は全国で261社あります。そのうち162社が埼玉県、68社が東京都に存在し、関東圏での氷川信仰が非常に厚いことがうかがえます。

関東に氷川神社が多い理由

なぜこれほど氷川信仰が関東で広がっているのでしょうか。もともと「氷川」とは出雲国の簸川(ひかわ、島根県、鳥取県を流れる斐伊川(ひいかわ))に由来しています。スサノオを信仰する出雲氏族が古代に武蔵野国造(むさしのくにのみやつこ)となって、関東地方に移住し、開拓を行った伝承があり、それと関連していると考えられます(滝口正哉編 赤坂氷川神社の歴史と文化)。古代出雲国から移住した彼らは、農業用水として、荒川を大いに利用したものと考えれます。その一方、荒川の水害にも悩まされていたのでしょう。荒川を故郷の簸川に見立てて、氷川神社を勧進し、治水を祈ったことが、氷川信仰が関東で広がっている理由と考えられます。

浅野家の衰退と氷川神社の遷座

赤坂氷川神社が大いに繁栄するのは、8代将軍、吉宗の時代です。吉宗は享保14年(1729年)、老中水野忠之に命じ、氷川神社を現在の地に移転させます。現在地はその当時、三次藩浅野家上屋敷があった場所でした。

三次藩浅野家は、忠臣蔵で有名な、浅野長矩の正室、瑤泉院(ようぜんいん)の実家です。瑤泉院は三次藩主の三女として生まれました。分家の浅野長矩に嫁ぎ、当時は阿久里という名でしたが、長矩の切腹後、尼となり、寿昌院と名乗ります。所が、綱吉の生母桂昌院と同じ「昌」の字を使うことを遠慮し、瑤泉院と改めます。討ち入りに連座し伊豆大島に流された吉田伝内などの遺児の恩赦に努めたとされています(山本博文著 知識ゼロからの忠臣蔵入門)。

また、歌舞伎の忠臣蔵では、討ち入り直前の未明、内蔵助と対面したとされています。有名な「南部坂雪の別れ」です。近くに南部坂はありますが、史実としてそのようなことがあったかは定かでありません。

討ち入り後瑤泉院は三次藩浅野家の実家にもどります。三次藩浅野家は嗣子に恵まれず、廃藩となり、この上屋敷も引き払いとなり空き地になりました。

吉宗は徳川御三家である紀州藩の出身です。寛永9年(1632年)に、紀州藩は赤坂の地に中屋敷を拝領します。また、明暦の大火後、紀州藩上屋敷もこの赤坂の地に移されています。そのため、吉宗にとって、この赤坂の地は重要な土地でした。また、氷川神社も産土神と認識していました(滝口正哉編 赤坂氷川神社の歴史と文化)。それらのことが、氷川神社移転につながるようです。享保15年(1730年)、広いこの地に遷座し、直々に参拝を行いました。

以後明治に入ってからも、明治天皇より東京の鎮護と万民の安泰を祈る「准勅祭社」に定められるなど、その繁栄は後世に続いています。