赤穂浪士討ち入りの舞台-吉良邸跡

赤穂浪士討ち入りの舞台-吉良邸跡

赤穂事件の舞台となった吉良邸の場所

両国の回向院のそばに本所松坂町公園という小さな公園があります。ここは赤穂事件で有名な吉良上野介の上屋敷があった場所です。四十七士の討ち入りはまさにこの場所で行われました。

元禄15年(1702年)の赤穂浪士の討ち入りの際の屋敷の広さは東西七十間(約134m)、南北三十四間(約63m)、面積にして二千五百五十坪(約8400㎡)と広大なものでした。現在の本所松坂町公園は当時の屋敷の中、北側のほんの一部。当時の1/86という広さではありますが、地元の人々の努力で、首洗いの井戸を中心に公園という形で残っています。

(現在の地図と照らし合わせたおおよその吉良邸跡)

吉良邸正門跡の案内

大名家の上屋敷とは何か

参勤交代が確立され、大名たちと藩士が江戸に住まうようになると、江戸の大名屋敷が複数作られるようになりました。上屋敷、中屋敷、下屋敷など用途に応じた複数の屋敷をもつのが一般的になっていきます。

上屋敷、中屋敷、下屋敷は江戸城からの距離と用途によって分かれていました。江戸城から最も近い位置にある上屋敷は幕府から拝領する屋敷です。大名、およびその家族が住み、幕府の要人の応接にも利用され、いわばメインとなる屋敷でした。

下屋敷は大名の別邸として利用され、郊外に建てられました。沿岸部などに建てられた下屋敷は国元からの物資荷揚げの拠点としても利用され、蔵屋敷と呼ばれるケースもあります。

中屋敷は上屋敷、下屋敷の中間に建てられたものです。江戸城外堀周辺に集中し、隠居や嫡子などの住まいとして、また、上屋敷に入りきれない家臣の宿泊施設として、いわばセカンドハウスとして利用されました。

吉良邸上屋敷が両国にあった理由

両国にある吉良邸跡は上屋敷に当たります。広大な面積を誇っていたとは言え、足利将軍家と縁故のある吉良家の上屋敷として、江戸の中心部とは言えないこの地がなぜ選ばれたのか。この理由もまた、赤穂事件の引き金となった、江戸城内での刃傷事件にあります。

刃傷事件当時、吉良邸の屋敷は、江戸城にほど近い、呉服橋のあたりに存在していました。それが刃傷事件のあった元禄14年(1701年)8月に両国本所の現在の跡地がある場所に移転を命じられています。吉良家側からの申し入れにより移転されたとありますが、実情は移転せざるを得ない理由がありました。

刃傷事件の後、赤穂浪士たちが討ち入りを行うのではないかとのうわさがあったことから、吉良邸の隣にあった蜂須賀家でも昼夜を問わず警備を強めていました。しかし、いつ行われるかわからない討ち入り。家中の者が疲弊したため、吉良家の屋敷替えを望み内々で懇願していたことが、上屋敷移転につながったようです。

両国本所への移転は赤穂浪士にとって討ち入りを容易にしたものと考えられます。討ち入りを決断する後押しとなったことでしょう。

両国橋東詰、ももんじや横にある公園に四十七士の一人である、大高源五の句碑があります。

日の恩や
たちまち砕く
厚氷

浅野内匠頭の旧恩を思い、ようやく敵討ちを遂げ、なすべきことをなすことができたという気持ちの表れでしょうか。「仮名手本忠臣蔵」などで一躍有名になった赤穂事件ですが、脚色や史実ではないことからも多く含まれています。ですが、吉良邸は確かにこの地にあり、今に語り継がれる歴史の舞台となっています。

参考文献

  • 墨田区文化観光協会/隅田歴史読本 忠臣蔵外伝
  • NHK歴史発見取材班編/歴史発見7
  • 人文社/切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩
  • 山本博文著/これが本当の「忠臣蔵」
  • 江戸屋敷三〇〇藩いまむかし
  • 日本博学倶楽部著/図説歴史の決定的瞬間