半蔵門の名前の由来-服部半蔵と伊賀同心

半蔵門の名前の由来-服部半蔵と伊賀同心

半蔵門の名前の由来-服部半蔵と伊賀同心

四谷に眠る服部半蔵と半蔵門の名前の由来

四谷駅から少し歩いた、新宿区若葉に西念寺というお寺があります。このお寺に、様々な作品で知られる服部半蔵(2代目服部半蔵正成)の墓があります。

地下鉄の路線名でもその名が知られる半蔵門ですが、この服部半蔵率いる伊賀同心組が警護を行ったことがその名の由来とされています。半蔵門は江戸城における搦手門(有事の際の逃亡のための門)とされています。半蔵門から城を脱出し、甲府へと向かう甲州街道を通り、甲府城へ逃れる手はずとなっていたといわれています(ロム・インターナショナル編 江戸の古地図で東京を歩く本)。そのため、甲州街道沿いは警備強化のため、百人同心などを住まわせています(百人町の地名の由来-御家人の暮らし)。

半蔵も神君十六将の内の一人として並べられるほど、家康からの信頼厚い家臣の一人でした。そのため、重要な搦手門の警護を任され、現在の半蔵門の名前の由来となっています。

服部半蔵の生い立ちと伊賀忍者の関係

半蔵がこれほどまでに家康の信頼を得た理由は何だったのでしょうか。また、半蔵についてもたれている忍者の頭領としてのイメージはどのようにしてできたものなのでしょうか。

服部半蔵と家康との出会い

「伊賀者大由緒記」の記述では、信長による大規模な伊賀攻め(伊賀の乱)の際、伊賀から服部の一族を引き連れ徳川家に従えたとされています。しかし、「寛政重修諸家譜」には、半蔵の父である、服部保長が伊賀から三河に移り、家康の2代前である松平清康のころから従えたとされています。「NHK歴史発見取材班編 NHK歴史発見11」においては、西念寺に残された半蔵の墓に「三州住人」と銘があることにも注目し、半蔵は父の代から家康に従えていた武士であったとしています。

半蔵の最大の功績、家康伊賀越え

本能寺の変で信長が光秀に倒されたとき、家康は信長との会談を終え堺にいました。わずかな手勢のみで堺に孤立してしまうこととなってしまいました。光秀の追っ手を恐れた家康は伊賀の山を越え、伊勢へ出、船で岡崎へと向かう最短ルートでの逃亡を試みます。伊賀越えの際の警護に当たったのが半蔵率いる伊賀者とされています(稲垣史生著 時代考証事典)。前述の「伊賀者大由緒記」にも

服部半蔵、是伊州の産なれば本多忠勝の旨を受けて伊賀路の嚮導(きょうどう)をつかまつる

とあります。

伊賀者の頭領としての半蔵

前述の「NHK歴史発見11」ではこの説も疑わしいものがあるとしています。徳川家の正史である「徳川実紀」の中で、伊賀越えの際に家康を助けた伊賀者の中に半蔵の名がないことから、半蔵により率いられていたのではなく、自発的に家康の逃亡を助けたのではないかとしています。

「伊賀者大由緒記」は伊賀者が自身の家系を正当化するため、脚色されている節がある点を「NHK歴史発見11」では指摘しています。古くから家康に従える半蔵を頭領に仕立て上げ、伊賀者と徳川家の関係を深くするための記述が随所であるのかもしれません。そのことが現在の伊賀者、忍者の頭領としての半蔵のイメージ形成に影響しているようです。

伊賀同心組頭としての半蔵

いずれにしても、信長、秀吉と長く手を焼いてきた伊賀者を、家康は伊賀同心組として自らの配下に結集させることに成功します。ここにはおそらく組頭としての半蔵の力が大きくかかわっていたと想像するには難くありません。半蔵が家康に信頼を得ていた点はこうした人心掌握の力なのかもしれません。

西念寺に今も眠る半蔵の忠誠

西念寺には半蔵の墓の他にもう一つ、大きな墓があります。家康長男、信康の墓です。

家康の長男、信康が切腹となった際、介錯を命じられたのが半蔵でした。主君の家康の長男である信康に対して刃を向けることができなかった半蔵はその遺髪を埋め、弔いのための庵をつくります。それが西念寺の起こりとなります。そのため、西念寺には半蔵の墓の他、信康の遺髪が埋められた墓も残ります(現地案内板による)。

どこか不思議なイメージのある忍者の頭領としての半蔵ではなく、家康を支えた忠臣としての半蔵が垣間見えます。