江戸時代の水路の跡-八丁堀

江戸時代の水路の跡-八丁堀

歌川広重の江戸名所百景、78景に鉄砲洲稲荷橋湊神社があります。現在の新川方面から西側を見た図で、左側に湊神社、現在の鉄砲洲稲荷神社が見えます。鉄砲洲稲荷は江戸初期には、上記名所百景に描かれているように稲荷橋南詰にありました。江戸湊の入り口として人々の信仰を集めます。その後明治元年(1868年)、現在の位置に移転し今に至ります。中央にかかる橋が稲荷橋で、稲荷橋が架かる、奥に続く堀が八丁堀です。
八丁堀の地名の由来はこの八丁堀にあります。八丁堀はその長さである八町(約872メートル)に由来します。現在の地図では、京橋ジャンクションから桜橋第二ポンプ場までの直線が八丁堀跡ですが、その距離は700メートルほどです。残りの100メートルあまりの距離はどこから来ているのでしょうか。
鈴木理生氏は著書「江戸はこうして作られた」の中で八丁堀の八町を舟入水路の長さであるとしています。武州豊嶋郡江戸庄図を見ると八丁堀の水路の先に二本の突出があるのがわかります。

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この突出から八丁堀水路を合わせた部分を八丁堀舟入と呼び、この長さが八町ほどであったことから八丁堀としているという説です。
鈴木氏は上記著書の中で、この舟入が作られた理由を江戸防備の為としています。堤防により江戸湊への船の侵入経路をこの八丁堀に限定することで江戸の守りを固めました。
八丁堀はその後、1972年に埋め立てられ、ポンプ場、桜川公園にその痕跡を残します。また、稲荷橋は今も欄干のみがポツンと歩道に残されてします。

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