お台場の地名の由来-江戸時代の軍事遺跡第三台場

お台場の地名の由来-江戸時代の軍事遺跡第三台場

台場の地名の由来

東京の観光名所として知られるお台場。高層マンションや商業施設が立ち並び、休日ともなると多くの人で賑わいます。

お台場の地名の由来は、江戸時代にこの地に築かれた台場(大砲台)にあります。品川台場は嘉永6年(1853年)6月のペリー来航がきっかけとなり、海防強化のために築かれました。同年8月には建築がスタートしていることから、当時の緊急度合いの高さがうかがい知れます。

品川台場は当初の計画では第1台場から第11台場までの11が作られることになっていましたが、資金難により1~7台場までが着手、内、第4台場と第7台場が仕掛途中で中止となっています。

現在は第3台場が公園として残されているほか、第6台場が絶対保存という形で人が立ち入らない状態で残されています。また、御殿山下台場(陸続き4番ともよばれる)がそのまま台場小学校となり形状がうかがい知れる他は埋め立て、撤去がされ残されていません(五角形に見る台場跡-台場小)。

以下は台場の大体の位置を表しています。

建築された台場の大まかな位置

海防論の高まりと各地の台場

品川台場のような海防の取り組みはペリー来航により急に起こったものではありません。ペリー来航以前にもたびたび異国船が来航するようになり、海防論が唱え始められるようになりました。仙台藩の侍医であった工藤平助は天明3年(1783年)、「赤蝦夷風説考(あかえぞふうせつこう)」を発表し、ロシア船の相次ぐ来航、南下政策の実情と対策を幕府に献策しています。

こうした声を幕府も無視したわけではありませんでした。天明5年(1785年)にはロシアの南下政策に対抗するため、調査隊を派遣し、蝦夷地の開発、防備に着手します。

その後、イギリスの捕鯨船などが日本沿岸に多くあらわれるようになり、文政8年(1825年)に異国船打払令を発令します。その後、アヘン戦争の勃発により、諸外国の軍事力を見せつけられた形となった幕府は、異国船打払令を改め、軍事改革に乗り出しました。幕府はその間に各藩に命じ、江戸湾防備を強化目指し、羽田台場、大森台場など様々な台場が築かれていきますとしかし、幕末の度重なる老中の失脚などにより、海防は思ったより進まずペリーの来航をむかえることとなります。

ペリー来航と品川台場

嘉永6年(1853年)、ペリー率いるアメリカの軍艦4隻が浦賀沖に来航し、開国を求めます。以下の有名な狂歌からも幕府の動揺ぶりが伺えます。

泰平の
眠りを覚ます
上喜撰
たった四杯で
夜も眠れず

上喜撰は宇治で作られる高級なお茶。4隻の蒸気船で狼狽する幕府のさまを皮肉っています。

海防強化の必要性を痛感した幕府は以前から海防についての建議を提出していた伊豆(静岡)の韮山代官江川英龍(えがわひでたつ)に命じ、三浦半島、房総半島一帯を調査します。

英龍は江戸湾の防備のため、相模の観音崎、上総の富津、そして品川沖内海に台場を建造することを提案します。それを受け、嘉永6年(1853年)8月、品川台場の築造が決定します。同月21日に工事が着手。ペリー来航からわずか2か月余りに工事が始まりました。

短期間による品川台場築造と優れた設計

当初11基の台場で計画されていた品川台場の工事。すべての台場で割り当てられた後期は最も長いもので100日、短いもので50日と短期間での工事が進められていくことになります。財政難から当初予定していた11基から、深川沖の4基を除いた7基の築造が進められました。

品川海中江御台場新規御取立并絵図

まず、第1台場~3台場の工事が嘉永6年(1853年)8月にスタート。その後安政元年(1854年)1月(嘉永7年11月に改元)に御殿山下台場(現在の台場小学校)と第4台場~第7台場の工事がスタートします。しかし、更なる財政面の問題から、第4台場と第7台場が工事を途中で中止しています。

第1台場~3台場は8か月後の安政元年(1854年)5月に完成、御殿山下台場(陸続き第4台場)、第5台場、第6台場は安政元年(1854年)11月に完成しています。

短い工期で進められた台場工事ですが、江川英龍(えがわひでたつ)による考えられた設計が垣間見えます。英龍はオランダの兵学者エンゲルベルツの築城書を参考にして、品川台場を設計しています。それがよくあらわれているのが、第1台場から第3台場、そして第4台場から第7台場までの2つのラインで台場が築かれている点です。

まず、台場の機能を第1「迎え打ち」、第2「横打ち」、第3「追い打ち」の3種と定義し、太平洋側、前列の第1台場から第3台場で迎え打ちを行います。この1つ目のラインが突破されても、第1台場から第3台場のわきを船舶が通ることになり、横打ちの役割を果たします。2つ目のライン、第4台場から第7台場も通過した場合、このラインが背後から追い打ちを行うことになります。

また、各台場が築造された位置についても非常によく考えられています。品川台場が築造された品川沖は、隅田川、中川、江戸川が運ぶ土砂で比較的浅い海が続いています。船底が深い船は海底谷となっている澪筋(みおすじ)を通る必要があります。その澪筋を挟む形で各台場が築かれているため、自然と船の航路を挟んだ形で横打ちができることになります。

台場の現在

開国、大政奉還後、台場はその役割を失っていきました。第2台場は船の航路の妨げになるため、撤去され、第1、第5台場は品川埠頭の埋め立てにより、陸地化し、跡形を残していません。前述の通り、御殿山下台場は台場小学校がそのまま跡地に立ち、わずかにその形をうかがい知れます。

築造途中で中止となった第4台場は天王洲アイルにある第一ホテル東京シーフォートの敷地にある、ボードウォークの石垣に一部名残を残しています。

第3台場は公園として公開しながら当時の様子を維持する「相対保存」という手法で現在に残されています。当時の石垣や、弾薬庫など間近で見ることができます。もう1つ、第6台場は「絶対保存」という手法で現在に残されています。こちらは一切の手を加えず、当時そのままの状態で保存されている為、一般の人が立ち入ることはできません。また、樹木などの手入れもされずそのままの状態ですので遺構が荒れていることが懸念されます。

参考図書

  • 佐藤正夫/著 品川台場史考 幕末から現代まで
  • 品川歴史館 品川御台場 : 幕末期江戸湾防備の拠点
  • 西ヶ谷泰弘/編 国別 城郭・陣屋・要害・台場事典
  • 東京百年史