名前が付けられた堀、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵
江戸城の堀の中に、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵があります。千鳥ヶ淵は江戸城北西側に広がり、桜の名所として知られています。牛ヶ淵は九段下、千代田区役所のあたりに広がる堀です。
千鳥ヶ淵の名称の由来は諸説あります。
- かつて雁、鴨などたくさんの鳥が生息していたため
- 千鳥が飛来したことに由来するため
- 屈曲している形状が千鳥に似ているため
どの説が正しいのかは定かではありません。しかし、他の堀と比べると特異な点は「堀」の名称ではなく「淵」であるということです。また、鈴木理生著の「江戸と江戸城」では、江戸期の公文書においては堀は固有名詞がついておらず「御堀」とされているのが一般的で、名称がついていた、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵、溜池の特異性を指摘しています。
飲料用のダム湖、千鳥ヶ淵、牛ヶ淵
淵(ふち)とは、河川の流水が穏やかで深みのある場所。
wikipedia
上述の通り、 淵は河川の淀み、深みのことを指します。千鳥ヶ淵、牛ヶ淵の「淵」も河川と無関係ではありません。
以下は千鳥ヶ淵、牛ヶ淵周辺のデジタル標高図です。
注目したいのは千鳥ヶ淵に向かって、大きく2つの谷筋が見える点です。また、その名称の由来となっている通り、千鳥ヶ淵がくの字に曲がっており、先端部分にあたる北の丸と皇居の間の部分が若干標高が低くなっていることも分かります。
上記の標高図に家康入城時の河川を書き足したものが以下です。
1964年の東京オリンピックに合わせて、北の丸、皇居の間に首都高速が建設されました。建設に伴う掘削により、かつてこの部分(図の赤い線の部分)に河川が流れていたことが明らかになりました。
家康が江戸に入城したころ、麹町の台地からの湧水が河川となり、千鳥ヶ淵あたりで合流し、現在の乾堀、蓮池堀を通り、日比谷入江に流れ込む河川がありました(図の黒い線)。家康はこの河川に注目します。
江戸の町を作るうえでまず困ったのは飲料水の不足でした。そのため家康は江戸城周辺の河川、湧水をせき止めることでこれを補おうとしました。その一つはが江戸城北西部を流れ、現在の坂下門付近で日比谷入江に流れ込んでいた河川(図の黒い線)でした。この川を国立近代美術館工芸館付近でせき止め(図の赤い線)できたのが千鳥ヶ淵です。
家康がもう一つ水源として注目したのが、麹町から続く台地の東端部分からの湧水でした。九段坂、北の丸あたりで台地面が終わり標高差があります。かつてここを流れていた平川(現在の日本橋川)の河岸段丘です。
この段丘面から湧水が流れており、これを飲料水として活用するため、清水門のあたりでせき止めました。これによりできたのが牛ヶ淵です。
これらの工事は家康の江戸入城直後である天正18年(1590年)から開始されました。江戸入城直後の工事では小名木川などの開削による輸送路の確保、そして牛ヶ淵、千鳥ヶ淵といったダム湖の造成による飲み水の確保といった、街を繰るうえでの基礎となる工事が行われ、江戸の町の発展の礎となりました。
参考文献
- 鈴木理生著/江戸と江戸城
- 芳賀ひらく著/江戸東京地形の謎
- 洋泉社MOOK/大江戸の都市力
- 竹内誠編/東京の地名由来辞典
- 鈴木理生著/江戸の川東京の川