千葉県京成船橋駅から少し歩くと、小さな「東照宮」があります。船橋には江戸時代初期、家康が東金方面で鷹狩(隼町の地名の由来-家康と鷹狩)を行う際に休憩・宿泊する御殿が作られました。現在も船橋に残る東照宮はその跡地に建立されたものです。
日本一?小さい東照宮
船橋の東照宮は前述の通り、鷹狩の際の休憩所である御殿跡に建立されたものです。江戸時代に作られた船橋御殿は広さ57000㎡と広大なものでしたが、現在では周辺が宅地になっており、東照宮は小さな社です。日本一小さな東照宮ともいわれているようなのですが、実は日本一を名乗る東照宮が埼玉県鴻巣にも存在します。
鴻巣の東照宮と、船橋の東照宮、どちらが小さいか定かではありませんが、面白いのはその起こり。どちらも家康の鷹狩のために作られた御殿跡に建立されています。
家康が鷹狩を行った理由
御殿跡が各地にあることからも分かるように、家康は鷹狩を多く行っていたといわれています。70年余りの生涯の中で実に1000回以上の鷹狩を行ったとされています。
家康は鷹狩の目的を以下のようにのべています。
「鷹狩は遊娯の為のみにあらず、遠く郊外に出て、下民の疾苦、士風を察するはいふまでもなし、筋骨労動し手足を軽捷ならしめ、風寒炎暑をもいとはず奔走するにより、をのずから病など起こることなし」
「かつは家人等剛弱の様をかうがへ見るにも便なり、家人もまた奔走駈馳するによりて、歩行達者になりて物の用に立なり、かゝれば大名の狩するは全く軍法調練の為なり」
健康にもよく、軍事調練の役にも立つ鷹狩。純粋に鷹狩を楽しんでいたという側面も大いにあると考えられますが、関東入国後も多くの鷹狩を行いました。
鷹狩を行う地域、また、その関連地域は鷹場とされ、鷹場の住民は厳しい規制下にありました。いくつか挙げるだけでも
- 役人往来の際の人足や経費の負担
- 家や道路の普請の際には役人に届け出ること
- 芝居や開帳など人が集まるような行事をしないこと
など、日常生活にも制限がされています。幕府ができたばかりのまだ盤石とはいえない体制下で、農民統制の施策として鷹狩がその役割を担っていた側面もあったようです。
船橋御殿と御成道普請
船橋御殿が作られたのは慶長19年(1614年)正月の頃とされています。前年の12月、東金の辺りで鷹狩をすることを決めた家康。東金で鷹狩を行うことを受けて、土井利勝が普請を行いました。土井利勝は船橋御殿だけでなく、御成道という新しい道の普請も行っています。当時に至る東金道(旧東金街道)が存在していたのですが、道幅が狭く、曲道が多く上下差があるため見通しも悪いため警護に不向きだったようです。そのため急遽、船橋から東金をほぼ一直線で結ぶ御成道を作りました。
御成道、船橋御殿の普請は大変な突貫工事だったようで、近隣の村々の人足を使い昼夜を通して10日から15日で完成したといわれています。これには諸説あり、実際の工数を考えると数か月かかったのではないかともいわれています。いずれにしても家康の東金での鷹狩を契機として、船橋御殿が作られることになりました。
東金で鷹狩を行った理由
家康が東金での鷹狩を決めた理由は、館山城主の外様大名里見安房守忠義の情報探索とその処置にあったのではないかと考えられます。
慶長19年(1614年)正月の東金への鷹狩から帰った直後、家康は小田原城主大久保忠隣を改易、それに連座して大久保忠隣と婚姻関係にあった里見忠義に国替えを命じています。大久保忠隣が改易となった理由は諸説あります。ただ、この処置により
- 本多正信と対立関係にあった大久保忠隣を追放させ内紛の火種を消した
- 江戸に近い外様大名を遠ざけた
以下の2つを一挙に解決しています。東金での鷹狩と時期が近いことから、上記の処分に鷹狩で得た情報が関与していることは十分に考えられます。大阪では豊臣秀頼が健在で、まだ安定しているとは言えない幕府運営において、鷹狩が一定の役割をはたしていたといえます。
その後幕府が安定し、5代将軍綱吉の頃には「生類憐みの令」(中野犬屋敷跡-生類憐みの令と綱吉)により鷹狩も一時全面的に禁止されます。船橋御殿も貞享年間(1684~1688年)に取り壊されて、船橋大神宮宮司の富氏に与えられ畑となりました。その地に富氏が東照宮を建立、現在に至っています。
参考書籍
- 本保弘文著/東金御成街道
- 船橋市教育委員会/ふなばし歴史と文化財
- 船橋市/ふなばし物語-太古から現代まで-
- 船橋市史編さん委員会/船橋市史 近世編