鷹狩の鷹場跡-仲台院と加納甚内

鷹狩の鷹場跡-仲台院と加納甚内

鷹狩の鷹場跡-仲台院と加納甚内

加納甚内が眠る仲台院

江戸川区に仲台院という浄土宗のお寺があります。現地案内版では、應誉良道上人が天文8年(1539年)に阿弥陀如来を祀ったのが始まりとされています。

この仲台院境内墓地に加納甚内の墓があります。加納甚内は八代将軍、吉宗の時代、鷹場役人の一役である綱差として幕府に従えていました。加納甚内の墓は区登録史跡となっています。

江戸近郊に指定された鷹場

加納甚内とこの地の関係は、江戸時代初め、家康のころからこの辺りが鷹場に指定されていたことに始まります。家康も好んで鷹狩を行っており、この葛西にも訪れていたようです(隼町の地名の由来-鷹狩と鷹匠)。江戸時代、江戸川区のあたりは東葛西領下之割と呼ばれており、田が広がり、木々や草木が茂る自然の多い場所であったようです。水辺の自然に鶴や白鳥が集い、生息していました。こうしたところから、この辺りが鷹場に指定されたようです。

その後、生類憐みの令で知られる、五代将軍、綱吉のころに鷹狩はほとんど廃止されました。ちなみに、現在も残る隼町など、このころには鷹狩に由来した地名がいくつかあったのですが、この時に変更された地名も多くあります。もともと鷹匠町、と呼ばれていた地も町名変更で、小川町となり、現在の神田小川町に続いています。

そして、鷹将軍と言われた吉宗の時代、再び鷹場制度が復活しました。鷹場はこのころ何回かの再編を経て、葛西筋、岩淵筋、戸田筋、中野筋、目黒筋、品川筋の6か所が将軍家の鷹場(御拳場)とされました。

綱差役、加納甚内

吉宗のころの鷹場の特徴として、直接鷹場を管理する役人である、鳥見、という職が整備されたことです。加納甚内の網差も鳥見役人の職の一つです。葛西筋は6つの鷹場の中でも広大であるため、最も多い10人の鳥見があてがわれていました(古文書に見る江戸時代の村とくらし① 鷹狩)。また、鳥見のための役宅も通常1つのところ、葛西筋だけは亀有村、東小松川村の2つがおかれました。このうち東小松川村に住まわされたのが加納甚内です。

加納甚内の本姓は牧戸氏で、伊勢国の出身です。祖父の代から三代にわたり、紀州藩の綱差役を務めていました。綱差役というのは、鷹狩の時に鷹に捕えさせる鶴を事前に捕え、餌を与えて飼いならしておく役目です。

吉宗が紀州から幕府に入った際に、甚内を江戸に呼び寄せます。将軍から直々に網差役に任命された甚内は江戸周辺でも鶴の生息状態が良かった東小松川に常住を命じられることになりました。その後、享保二年(1717年)、吉宗が鶴をとらえた褒美として、このとき同行していた吉宗側近の加納遠江守の加納姓を授かり、加納甚内となります(古文書に見る江戸時代の村とくらし① 鷹狩)。

鳥見役による鷹場の支配

吉宗のころに作られた、鳥見役を中心とする鷹場制度は、村、領を超える形での地方支配的な要素を強めたものでした。鷹場制度は幕府の地方支配の制度ととらえることもできます。その様子は「御鷹場御法度手形之事」から読み解くことができます(それぞれ条項は古文書に見る江戸時代の村とくらし① 鷹狩より抜粋)。

一、御成道は申し上ぐるに及ばず、脇道・橋までも御鳥見衆御差図次第に作り申すべく候、竹木の枝をおろし、往来の障りこれ無き様仕るべく候事、(道や橋の普請は鳥見役の指図に従うことを義務付ける)

一、御鷹場に於いて、脇鷹は申すに及ばず、縦(たとい)御公儀様御鷹なるとも御支配の御鳥見衆案内なくしては御鷹つかわせ申すまじく候事、(たとえ幕府の鷹であっても鳥見役の許可なく鷹を使うことを禁じる)

一、鳥、追い立て申すまじく候事、(鳥を追い立ててはいけない。歌舞音曲から、建築の騒音も規制された)

そのほかにも、鷹場内の不審者などを監視し、不審なものがいれば鳥見役に申しつけること、などがあり、ずいぶん大きな権限を鳥見役が持っていたことがわかります。

鳥見役は、旗本領、大名領、寺社領など複雑に分かれていた領有関係を超えた形で、鷹場の広い範囲を取り締まることを許されていました。