時の鐘と伝馬町牢屋敷-十思公園

時の鐘と伝馬町牢屋敷-十思公園

十思公園の名前の由来

地下鉄小伝馬町駅を出て、一本路地を入ったところに、十思(じっし)公園という公園があります。現地案内板によると、十思(じっし)公園の名前は明治末年から平成2年までこの地にあった、十思小学校が由来となっているようです。十思(じっし)は、中国、司馬光による歴史書「資治通鑑(しじつがん)」に記載の「十思之疏」(天子がわきまえるべき十か条の戒め)から取られています。小学校跡地は校舎跡を利用した十思スクエア、そして、十思公園が残されています。

十思公園の時の鐘

十思公園に入ると、まず大きな鐘楼が目を引きます。都の文化財に指定されている「石町時の鐘」です。現地案内板によると、この時の鐘は宝永8年(1711年)に鋳造されたもので、昭和5年(1930年)にこの地に設置されたものです。

石町時の鐘と江戸時代の時の鐘

十思公園に保存されている時の鐘は江戸時代で最初に設置されたといわれる、本石町(室町4丁目、本町4丁目)に設置の鐘楼に取り付けられていたものです。十思公園前の道は「時の鐘通り」となづけられており、その道を中央通りに向かうと、石町時の鐘の案内板を見つけることができます。

本石町の時の鐘の起こりには諸説ありますが、代々、本石町時の鐘の時鐘役を務めた辻源七の書上げ(記録用の上申文書)から、寛永3年(1626年)とするのが通説です(浦井祥子著 江戸の時刻と時の鐘)。それまでは江戸城内で鐘をついていましたが、城内で鐘の音がうるさいとの声が上がり、太鼓に変えたところ、今度は江戸町内から鐘の音が聞こえず困っているとの声があがります。そのような経緯から石町、後の本石町に時の鐘が設置されました。

江戸の人口が増え、市街地がどんどん拡大するにつれて、時の鐘も郊外に増設されていきました。天保7年(1836年)、「江戸名所図会」には9つの時の鐘が紹介されています。

  • 本石町
  • 上野寛永寺
  • 市ヶ谷八幡
  • 赤坂(円通寺)
  • 芝切通し
  • 目白不動尊
  • 本所横堀
  • 浅草寺
  • 四谷天龍寺

市街地の発展とともに次第に江戸郊外へその範囲を広げていることがわかります。これらの時の鐘はそれぞれの鐘によって定められた町々から鐘撞料を徴収して運営されていました。現地案内板によると、その金額は一軒につき月1文、鐚銭で4文と紹介されていますが、その時々の相場に応じて徴収金額は変動があったようです(浦井祥子著 江戸の時刻と時の鐘)。また、石町時の鐘の場合、北は本郷、南は浜松町、東西が隅田川から麹町までと非常に広いエリアから鐘撞料を徴収していました。遠くて鐘の音が聞こえなくても徴収されることから

石町で

出しても同じ

鐘の割

と、川柳に残るように不満があったことが垣間見えます。

伝馬町牢屋敷跡としての十思公園

上述の通り、石町の時の鐘があったのはもともと十思公園の場所ではありませんでした。この場所は江戸最古の市街地図として知られる、寛永9年(1632年)、「武州豊嶋郡江戸庄図」に「ろうや」と記されており、古くから牢屋敷として利用されていました。家康の江戸入府当時は常盤橋御門外等に置かれていましたが、慶長年間(1596年~1615年)にこの地に移ったとされています(中央区教育委員会 伝馬町牢屋敷跡遺跡)。明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄にその役目を移すまで、江戸時代を通してずっと牢屋敷であったとされます。

平成24年に発掘調査が行われ、牢屋敷の石垣の跡、井戸の跡など、多くの牢屋敷の遺構が発掘されました。

伝馬町牢屋敷の概要

十思スクエア内にある展示によると、牢屋敷は現在の刑務所のようなものではなく、未決囚の収監、死刑囚の処断を行う拘置所に近い施設だったとされています。屋敷の広さは2618坪(8639㎡)でした。牢屋敷の責任者である、牢屋奉行は代々世襲で、その配下に40人~80人程度の牢屋役人がいました。しかし、牢内は囚人による完全自治制がとられていたようです。牢内の環境は劣悪で、皮膚病疾患者が後を絶たなかったようです。