時代とともに姿を変えた-桜の名所御殿山

時代とともに姿を変えた-桜の名所御殿山

御殿山の名前の由来

品川宿、現在の北品川駅の西に御殿山があります。御殿山、という地名は残っていないのですが、武蔵野台地島南端に広がる「高輪台」、特に北品川4丁目、5丁目のあたりを御殿山と呼びます。現在でも御殿山トラストタワーなど周辺施設にその名前を残しています。

御殿山の名前の由来は、江戸時代、この地に将軍の御殿が設けられたことにあります(品川区遺跡調査会 御殿山遺跡)。

また、家康入城前、太田道灌が江戸城築城以前、品川の館に住んでいたとの伝承もあります。この館が高輪台の地にあったため、御殿山とする説もありますが、品川区史では太田道灌の館がこの地にあったという説の真偽のほどは明らかではない、としています。

江戸時代以前の御殿山

太田道灌の館があったかどうかは前述のとおり明らかではありませんが、御殿山の地には古くから人々が住んでいたようです。御殿山一帯には御殿山遺跡があり、縄文時代の貝塚遺跡として認識されています。昭和63年の御殿山地域の発掘調査においても、縄文時代、弥生、古墳時代の遺跡が見つかっています(品川区遺跡調査会 御殿山遺跡)。

江戸時代の御殿山

御殿山の「御殿」の使われ方

江戸時代に入り御殿山に作られた将軍の御殿。この御殿はどのように使われていたのでしょうか。

まず1つに鷹狩りの際の休息所としての使われ方がありました。

寛永5年(1628年)に発令された鷹場令、という法令があります。これは江戸五里四方の農村を対象に鷹場の管理について五か条の条文でまとめたものです。この対象の村として品川も含まれており、江戸初期には御殿山の近辺でも鷹狩りが行われていたようです(根崎光男著 将軍の鷹狩り)。

もう1つに西国大名の参勤交代時に将軍自ら送迎するため、また、茶会の会場としての使われ方がありました。

家光の時代に制度化された参勤交代において、将軍自ら西国大名の労をねぎらい、品川の外れまで送迎することがあったようです。御殿山の御殿はそのための屋敷として利用されていました。また、将軍家の行事の茶会の際にも利用については「徳川実記」にその様子が記述されています。寛永17年(1940年)、御殿山の御殿にて、将軍家光の他、御三家、幕府の重臣たちが集まり大規模な茶会がもようされたようです。茶室などの建物を新設し、金銀をちりばめた膳具だけでも500人分が準備され、非常に大規模なものだったようです(品川区史)。

桜の名所の御殿山に

こうして様々に利用された御殿山の御殿でしたが、元禄15年(1702年)の大火の際に焼失してしまいます。その後御殿は再建されず、桜の名所として江戸市民に親しまれるようになっていきます。

桜は寛文年間(1661年~1673年)に吉野山より移植されたもので、江戸名所図会にもその美しさが描かれています。享保3年(1718年)にろうそくの原料として植えられた櫨の秋の紅葉とともに風光明媚な場所として親しまれました。

「江戸名所百景 品川御殿やま」にも花見客で賑わう御殿山の様子が描かれています。

image

台場土取場としての御殿山

江戸名所百景に描かれた御殿山は、中央の崖が目を引きます。この崖はペリー来航以降、江戸湾防備のために築かれた、台場の土取りによってできたものです。

幕府は台場建造の際の主要な土取場として、泉岳寺付近の外山、そして品川御殿山、八ツ山の三ヶ所を指定しました。これらの土取場は東海道にも面しており、海も近く都合の良い土地でした。当時土取りによってできた窪地が今も御殿山トラストガーデンの庭、品川女学院付近に残されています。