江戸時代の桜の名所、飛鳥山-飛鳥山の由来と花見の起源

江戸時代の桜の名所、飛鳥山-飛鳥山の由来と花見の起源

飛鳥山の名前の由来

江戸時代からの桜の名所で知られる、飛鳥山公園内に飛鳥山碑があります。元文2年(1737年)に建てられたもので、飛鳥山の由来、桜の名所となった経緯が書かれています。碑文の中に以下の記述があります。

武之豊島郡(ぶのとしまごおりの)

豊島氏(としまし)

初兆豊島郡(はじめてとしまごおりにかぎりて)

為熊野神座(くまののかみのざとなす)

地之曰王子(これにちしておうじといい)

山之曰飛鳥(これにやましてあすかというは)

蓋自此始也(けだしこれよりはじまるなり)

(東京都北区教育委員会 北区郷土資料館シリーズ13 飛鳥山より)

これによると、飛鳥山と呼ばれるようになった由来は、平安末期、豊島氏がこの辺りを支配していたころにさかのぼります。豊島氏が紀州和歌山熊野より勧請したといわれる、飛鳥明神、王子権現よりその名前が来ているようです。

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飛鳥山は上野から北に連続する武蔵野台地の北端にあります。そのため、「山」というわけではないのですが、石神井川が台地を横切るようにして流れ、谷を作っているため高い山のように見えます。飛鳥明神、そして武蔵野台地の高台と石神井川によって形作られた地形により「飛鳥山」と呼ばれています(東京都北区教育委員会 北区郷土資料館シリーズ13 飛鳥山)。

豊島氏によって勧請されたとされる飛鳥明神は豊島氏が太田道灌により滅ぼされ一時衰退します。その後江戸時代、家光の代に王子権現の境内に遷座、再建されました。しかし戦火により再び消失、現在は飛鳥山公園の北端、石垣に飛鳥明神のものとされる狛犬が残されています。

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この狛犬は飛鳥山中腹、飛鳥山公園モノレールの飛鳥山公園側の乗り場のすぐ脇にあります。なかなか見つけづらいのですが、音無橋の手前、明治通りを渡って音無橋側の歩道から飛鳥山を見ると見つけることができます。

桜の名所としての飛鳥山

飛鳥山が桜の名所になったのは吉宗のころにさかのぼります。1720年、江戸城の吹上にて育てられた苗木が270本、飛鳥山の地に植えられました。翌年にはさらに1000本以上の桜が植えられ、このころには1270本以上の桜が飛鳥山に植えられたことになります。

江戸時代初期の桜の名所といえば、1本木の桜を鑑賞するのが主流で、群落する桜の下で遊ぶという習慣はありませんでした。また、桜が群落する場所も上野くらいしかありませんでした。上野は寛永寺の境内であり、江戸市民に開放されてはいましたが、歌ったり、騒いだりすることは禁止、また、時間も日中に限られており、市民の行楽の場所としては不十分なものでした。

享保元年(1716年)に将軍になった吉宗は、江戸市民の娯楽の場所としての桜の群落地を作る施策を進めていきます。その施策として桜の名所になったのが飛鳥山です。かねてより鷹狩などで飛鳥山の地を訪れていた吉宗は、武蔵野台地と石神井川が作るこの景勝地を桜の名所とする構想を立てていたと思われます。また、自身の出身でもある紀州と縁が深いこともこの地を選んだ理由の一つだと考えられます。

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花見の起源と江戸時代

もともと花見は宗教行事から起こりました。サクラという言葉も田の神、穀霊を意味する「サ」、神座(かみくら、神のいる場所)を意味する「クラ」からきています(岩井宏實監修 日本の年中行事百科)。サクラという言葉は田の神が降りてくる依代を表しています。春になり桜の木に降りてきた神々を料理と酒でもてなしたのが現在の形の花見の起源となります。

その後江戸時代、吉宗の時代となり、上記のように飛鳥山や、御殿山(https://edokara.tokyo/conts/2015/08/20/132)のように江戸市民に開放された桜の名所が作られます。吉宗の時代である、享保年間以降、桜の名所にかまぼこ、卵焼きなどがはいった花見弁当をもって花見へ出かける風習も一般的になっていきます(双葉社 旧暦で読み解く江戸)。

当時のかまぼこは1枚100文(2000円)ほどもする高級品でした。「長屋の花見」という落語にもかまぼこや、卵焼きというメニューが一般的であったこと、また、それが高価だったことを物語るように代替品(沢庵、大根)で見栄を張る様が描かれています。