春日通りの名前の由来-麟祥院と春日局

春日通りの名前の由来-麟祥院と春日局

春日通りの名前の由来

国道254号線の山手線内側の区間は、「春日通り」と呼ばれます。

この春日通りの由来は、家光の乳母で、大奥の制度を築いた春日局にあります。文京区湯島に麟祥院というお寺があります。このお寺は春日局の願により作られたお寺です。境内には春日局の墓所もあり、春日局とゆかりが深いことから麟祥院の前を通る254号線は春日通りと呼ばれています。

麟祥院と春日局の墓所

麟祥院は前述のとおり、春日局の願により3代将軍家光の命で寛永元年(1624年)に開山しました。開山当初の号は報恩山天澤寺。春日局の法号である「麟祥院殿仁淵了義尼大姉」より、麟祥院と改号されます(麟祥院パンフレットによる)。

春日通りから少し入り、麟祥院の山門をくぐると、大通り沿いとは思えない静けさに包まれます。さらに奥、墓所に進むとひと際大きな墓石が目に入ります。春日局の墓所です。墓石、台石を見ると四方に穴が空いていることがわかります。この墓石の穴には春日局の願いが込められています。

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春日局の生涯

春日局(福)は天正7年(1579年)、明智光秀の片腕とされた、斎藤利三の末娘として生まれます。福が4歳のこと、本能寺の変を迎え、父は捕えられ六条河原で処刑、他の兄弟たちも消息がわからなくなってしまいます。

福はその後母方の親戚をたより、公卿である三条西公国に養育されます。武家に生まれ、公家で育てられた福は武家と公家の素養をどちらも身に着けた女性として成長しました。

その後福は稲葉正成の妻となります。正成は関ヶ原の戦いにおいて小早川秀秋を説得し、家康率いる東軍に寝返らせた、家康の天下取りの功労者でした。

慶長9年(1604年)、福は稲葉正成と離縁の形をとり、将軍のお世継ぎ、竹千代の乳母に任命されます。竹千代はのちの3代将軍、家光です。福が乳母に任命された経緯には諸説ありますが、正成の功労が大きく作用しているようです。

お世継ぎの乳母として竹千代を養育する福ですが、竹千代の弟である国松との間に世継ぎ争いがあったといわれています。竹千代をお世継ぎとするための福の献身がいくつか伝えられていますが、創作のものも含まれるようです。しかし、史実として、竹千代は3代将軍家光となります。

家光の将軍就任に伴い、「御局」として大奥の公務を取り仕切るようになります。家光の生母である江の死後、福はさらに権力を握り、さらに育ての親である三条西公国のつてをたどり、春日局の名号と位階を賜り、御所への昇殿を果たすまでになります(絵でみる江戸の人物事典)。こうして春日局は大奥の基礎を築いていきます。

春日局の死去と願い

寛永20年(1643年)、春日局はこの世を去ります。以下の辞世の句が残されます。

西に入る

月を誘い

法をへて

今日ぞ火宅を

逃げれけるかな

西に入るというのはおそらく西方に浄土があるという仏教の西方浄土の考え方を歌ったものでしょう。火宅は現世のことです。ようやく仏教の教えを受け、煩悩の多い現世をはなれ浄土へと行くことができる、といった意味でしょうか。波瀾に満ちた春日局がようやく穏やかな最期を迎えて安堵しているような気持ちも感じることができます。

さて、麟祥院の墓石の四方にあく穴ですが、これは「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を作ってほしい」という春日局の遺言をもとに作られたものです(麟祥院パンフレットによる)。

波瀾の人生を歩みながらも強く時代を生き抜いた春日局の意思が麟祥院に残ります。