司馬遼太郎と坂本龍馬
歴史小説を中心とする、数々の作品で知られる司馬遼太郎。今年は司馬遼太郎没後20年に当たります。
そんな司馬遼太郎の作品の中でも人気の高いものの一つに「竜馬がゆく」があります。自身がサラリーマン時代に記者を務めた産経新聞に1962年から4年にわたり連載されたもので、現在も文庫本が店頭に並び、司馬遼太郎の代表作となっています。
司馬遼太郎は高知での講演の際、龍馬について以下のように話しています。
ずいぶん面白い人なんだなという感じでした。すぐに書き始めたわけではありませんが、本格的に坂本龍馬を調べて見ようと思いました。
調べれば調べるほどおもしろいのです。どうやらこの人は、日本人から一つ桁の外れた人だということがわかり始めました。(週刊朝日MOOK 没後20年 司馬遼太郎の言葉)
「竜馬がゆく」の発行部数は2000万部を超えます。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B8%E9%A6%AC%E9%81%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E#.E7.99.BA.E8.A1.8C.E9.83.A8.E6.95.B0.E3.83.A9.E3.83.B3.E3.82.AD.E3.83.B3.E3.82.B0)
今日の坂本龍馬のイメージ形成に、「竜馬がゆく」が大きく作用したことは間違いありません。
坂本龍馬と桶町千葉道場
「竜馬がゆく」の物語は、龍馬が剣術の修行のため、私費で江戸に立つところから始まります。
「寄らば大樹のかげ、と申す。やはり、大成するためには、大流儀を学ぶがよろしかろう。それには、北辰一刀流がよろしい。」
「ああ、千葉周作先生であられまするな」
権平も田舎者ながら、それくらいのことは知っている。千葉の玄武館は、京橋アサリ河岸の桃井春蔵、麹町の斎藤弥九郎とならんで江戸の三大道場と言われ、天下の剣を三分していた。
「添書をかいて進ぜる。周作先生に学ぶのがいちばんよろしいが、先生はすでに老境であられるゆえ、京橋桶町に道場を持つ令弟の貞吉先生につかれるとよい。貞吉先生の道場は、お玉が池の大千葉に対し、子千葉とよばれています」
こうして龍馬は江戸の桶町千葉道場にて、北辰一刀流を学び、やがて幕末の騒乱の登場人物の一人となります。
桶町千葉道場と北辰一刀流
龍馬が学んだ北辰一刀流と、桶町千葉道場はどのようにして誕生したのでしょうか。
古来より、剣術はそれぞれの流派の教えが門外に出ることはなく、一子相伝、こく一部のものにしか会得が許されていませんでした。不特定多数に伝わることは、技が外部に漏れ、弱点を研究され、破られてしまうことにつながるからです。戦の世であった、戦国、江戸初期ではそれが自衛の手段でした。
しかし、江戸時代になり、戦がなくなったことで、そうした秘密主義に基づいた教えのあり方が剣術を劣化させてしまいました。実践に即した進歩がなされず、戦闘術としての実用性が失われつつありました。
それに異を唱えたのが、北辰一刀流開祖の千葉周作でした。千葉周作は一刀流を学び、その効率的な指導方法をまとめ上げます。やがて千葉周作は自身の流派を開きました。それが北辰一刀流です。「北辰」は北極星を神格化した妙見菩薩をさす言葉です。千葉家家伝の剣術を北辰夢想流と言いました。この北辰と自身が学んだ剣術の根幹である一刀流を掛け合わせ北辰一刀流としたのです(歴史群像シリーズ 日本の剣術2)。
千葉周作は、北辰一刀流を教える道場を構えます。これが玄武館です。北辰一刀流は幕末の動乱の追い風と、その合理的な指導方法もあり、一躍有名になります。道場の門人は6000名を超え、大道場となりました。(木村幸比古著 新選組全史)
こうした門人の増加に伴い作られたと言われているのが龍馬が学んだ、桶町千葉道場です。千葉周作の弟、千葉貞吉が師範代を務めました。
玄武館、そして桶町千葉道場で学んだ門人には坂本龍馬をはじめ、清河八郎、山南敬助、山岡鉄舟などがいます。玄武館、桶町千葉道場が明治維新の原動力の一端を担いました。
江戸三大道場
「竜馬がゆく」にもあるとおり、玄武館(桶町千葉道場)は、桃井春蔵の士学館、斎藤弥九郎の練兵館と並び、江戸三大道場と呼ばれます。幕末の剣客松崎浪四郎は各道場の特徴を「技の千葉(玄武館)、品格の桃井(士学館)、力の斎藤(練兵館)」と表現しています。
それぞれ三大道場の跡地には説明書きがあり、おおよその場所をうかがい知ることができます。
- 玄武館
神田東松下町24付近
- 桶町千葉道場
記事の地図を参照。中央区八重洲2丁目8−5付近に説明版あり
- 士学館
士学館の跡とはやや離れるが、京橋公園に三ツ橋、アサリ河岸の説明書きがある。
- 練兵館
靖国神社境内に説明版あり。靖国神社南門入ってすぐ。