錦糸町の地名の由来
総武線の駅名にもなっている錦糸町。錦糸町駅北口一帯に錦糸1丁目から4丁目が町名として存在します。
錦糸町の地名の由来は江戸時代、この辺りにあった「錦糸堀」にあります。
錦糸町と河川
錦糸町駅を降りて歩いてみると実に多くの川があることがわかります。堅川、大横川、横十間川等様々な河川が縦横に碁盤の目状に伸びています。
これらの河川は江戸時代、人工的に作られたものです。幕府が開かれてしばらくたち、その発展に合わせて江戸の町も広がっていきました。
発展を遂げていく江戸の町でしたが、明暦3年(1657年)、大きな災害に見舞われます。江戸の三大火事の一つに数えられる明暦の大火(振袖火事)です。火災での死者は6万8000余人。焼失区域は現在の千代田区と中央区のほぼ全域、文京区の約60%と大変な被害をもたらしました(両国の相撲起源の地-回向院)。
この火災をきっかけ両国橋の架橋が進み、両国、錦糸町といった墨東地区の開発が進められることになりました(両国の地名の由来-両国橋と隅田川花火大会の起源)。
江戸時代以前は低湿地であったこの地を開発するためまず前述のような堅川、大横川といった河川の掘削が進められました。これらの河川は物資の運河として、埋め立てを進めるにあたっての排水路として設けられます。河川掘削の残土を利用して両国、錦糸町の土地が築かれていきました。
人工的に作られた運河であるため、碁盤の目状にきれいに整備されています。運河に沿って道が整備されたため、現在にも続く碁盤の目状の市街地が形づくられていくことになりました。
錦糸堀がどこにあったのか
こうした運河(堀)の一つが錦糸堀と呼ばれ、現在の地名につながっていきます。では、たくさん開削されていた堀の中でどれが錦糸堀だったのか。諸説あるようですが、現在北斎通りと呼ばれる場所に存在していた「南割下水」がそれであると言われています。南割下水は万治2年(1659年)に開削されました。
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南割下水をなぜ錦糸堀と呼ぶようになったのか、ということについても諸説あります。「南割下水岸堀」の「岸堀」が転じて「きんし堀」となったという説もありますが、これだけ堀が多いとどこでも錦糸堀になってしまいそうです。
別の説としては、東西にのびる南割下水が朝日、夕日に照らされ、まるで錦糸のような美しさだったから、というものがあります。下水とは言っても、ゴミを流さないこと、仮に流れたとしてさらいあげること、また、下水の上にトイレを設けないことが定められていたようで、管理が行き届いていました。また、幅2間(約3.6m)、長さ531間(約1km)と現在の下水のイメージとは違い大きく、まっすぐ伸びた小川のような風情だったのかもしれません。そのような情景が錦糸堀という名前の起こりとなったと考えられなくもなさそうです。
錦糸堀とおいてけ堀
錦糸町の由来となった、錦糸堀とされる南割下水ですが、本所七不思議のひとつ、おいてけ堀の舞台という説もあります。
錦糸堀で魚を釣り、魚籠に入れて帰ろうとした。ところが、どこからともなく、
「置いてけ・・・置いてけ・・・」
という奇妙な声がする。
あたりを見回してみたが、人の姿はどこにもない。気味が悪くなり急いでその場を離れた。
途中、魚籠の中をのぞいてみたところ、釣った魚でいっぱいだったはずなのに、魚は1匹もなく空になっていた・・・。
中江克己著 江戸に眠る七不思議と怖い話
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おいてけぼりという言葉の語源という説もあるこの話。江戸初期の湿地帯だったころ、川向うの錦糸町は薄暗く人里離れた不気味な場所だったのかもしれません。開発が進むにつれ、やがて人が集うようになり、錦糸という美しい名がつけられます。
錦糸町エリアは再開発がすすめられ現在の姿となりましたが、江戸の名残を色濃く残しています。
東京に残された江戸時代に由来する地名
この記事で紹介した以外にも、東京には江戸時代に由来する地名が多く残されています。
参考書籍
- 山本純美/墨田区の歴史
- 小島惟孝/墨田区史跡散歩
- 中江克己/江戸に眠る七不思議と怖い話
- 東京下水道史探訪会編/江戸・東京の下水道のはなし
- 別冊歴史読本 江戸・東京の地名
- 三省堂/江戸東京学事典