上野寛永寺開山の天海僧正を祀る寺、上野寛永寺開山堂と旧本坊表門
台東区、上野公園の東京国立博物館。その隣に開山堂というお堂があります。かつてこの地にあった上野寛永寺(東叡山寛永寺)の開山した天海僧正を祀ったお堂です。
この開山堂の隣に大きな門があります。かつて上野寛永寺の最も奥に位置する本坊に設けられた表門の跡です。旧本坊表門をよく見ると、弾丸により開いた穴を見ることができます。円通寺に残る、寛永寺黒門跡と同様、上野戦争で被弾した際にできた穴です。
円通寺に残る黒門と比較すると、被弾の跡が少ない印象を受けます。当時の寛永寺の伽藍配置を見てみると、本坊が一番奥に位置し、本坊表門は現在の東京国立博物館のあたりにあります。それに対して黒門は現在の上野公園の御徒町側、南の入り口あたりにあり、戦闘の激しさの差があったのではないかと考えられます(上野戦争を今に伝える-寛永寺黒門)。
(江都東叡山寛永寺地図に黒門と本坊表門の位置を追記。青い四角で囲ったものが黒門。赤い囲いが本坊表門。現在の西郷像から国立博物館との位置関係とほぼ近しいため、上野公園をほぼ南北に縦断する距離の開きがある)
(円通寺に残る黒門)
上野の自然と寛永寺の歴史
上記の本坊表門の他にも、さまざまな歴史の面影を残す上野公園。広大な敷地は江戸時代に作られた上野寛永寺の跡ですが、こうした歴史を積み重ねるに至った自然背景があります。
上野の山、不忍池の起こり
現在の上野公園がある高台は、武蔵野台地の東部、「山手」に当たります。上野公園の台地部分を特に上野台地、といい、本郷台地と旧石神井川の流れで作られた谷によって分かれています。
旧石神井川の流れにより作られた自然堤防によって流路をふさがれ、そこに台地からの湧水などがたまってできた池が不忍池です。旧石神井川の流れは現在見ることができませんが、上野の山といわれる上野台地、そして不忍池といった上野公園を構成する自然が形作られました。
(上野公園付近のデジタル標高図。中央下にある青色の部分が不忍池)
寛永寺の創建
こうして形作られた上野台地には旧石器時代、縄文時代を通して人々が村落を作り暮らしていたようです。江戸時代に入り、慶長期にはこの台地上に藤堂高虎、津軽信政、堀直寄の三大名の下屋敷が作られます。
上野台地が大きく変わっていくのは元和8年(1622年)のこと。天海僧正の進言により、2代目将軍秀忠がこの地を収公し、天海僧正に寄進したことからです。
平安朝の初期、桓武天皇が最澄を招き、比叡山延暦寺を建て勅願をおこなう寺としたことにならい、江戸城の鬼門に当たるこの地に祈願のための寺を作るように進言したのが天海僧正でした。江戸城の鬼門に当たり、江戸を見渡す高台であるこの地が、祈願のためのお寺を作るのにふさわしいとされたのでしょう。
お寺の山号も比叡山にちなみ、東の比叡山ということで東叡山としました。また、延暦寺と同様、建立の年号を用いて、東叡山寛永寺、となりました。
(寛永寺本坊表門瓦。現在の寛永寺境内に残る)
上野の地名の由来と不忍池、寛永寺の発展
寛永寺はその後も整備を続けられ、寛永19年(1642年)には不忍池に弁天島が築かれました。これも比叡山の近くにある琵琶湖をまねて作られたとされています。上野の地名の由来の一説として、藤堂高虎の下屋敷があったころ、自身の領地である伊賀の上野に似ているため、上野やしきと呼ぶようになり、それが上野になったというものがあります。信ぴょう性は定かではありませんが、不忍池を琵琶湖とみたてるなど京都の町づくりを強く意識して東叡山寛永寺が形作られていきました。
(不忍池と弁財天)
慶安4年(1651年)に家光が没すると、その遺言により、寛永寺は菩提寺としての要素を持つようになります。家康が当初定めた菩提寺である増上寺と並び並立する形で菩提寺となっていきました。日光東照宮に祀られた家康、家光と、大正に入り没した慶喜を除く12名の将軍は6名ずつ寛永寺、増上寺に埋葬されています。
その後も次々と整備されていった寛永寺。元禄11年(1698年)には、その面積36万5千坪(120万4500㎡、東京ドームのおおよそ26個分)と、広大なものになっていきました。
(寛永寺本坊跡にたつ国立博物館)
上野戦争と上野公園
その後、幕末に入ると上野戦争の舞台となり、その大半は戦火により焼失してしまいます(上野戦争を今に伝える-寛永寺黒門)。
戦後、寛永寺の境内であった上野山は明治新政府によって接収され、文部省、兵部省の管理となります。明治6年(1873年)、太政官布達により、公園が設置されることとなり、上野公園が生まれました。
上野公園はその後も明治15年(1882年)、本坊跡地に博物館(のちの帝国博物館、現在の国立博物館)ができるなど、現在に見るような形が作られていきました。
現在も上野公園内に残る、上野東照宮。沢山の灯篭と並び、御神木の大楠がひときわ目を引きます。現地案内板によると、樹齢600年を超える大樹です。600年の長き間、上野の地の移り変わりを静かに見てきたのかもしれません。
参考文献
- 上野寛永寺旧本坊関連遺跡発掘報告書Ⅰ
- 都立上野高等学校改築に伴う第一次調査概報
- 弘文堂/江戸学事典
- 内藤昌著/江戸の町(上)
- 竹内誠編/東京の地名由来辞典
- NHKデータ情報部編/ヴィジュアル百科江戸事情第5巻
- 東京百年史第一巻