勝海舟が幼少期を過ごした両国
幕末、幕府の軍艦奉行として活躍し、近代日本の海軍の礎を築いた勝海舟。文政6年(1823年)に本所亀沢町(両国)で生まれ、明治32年(1899年)に赤坂氷川町の地でなくなるまで、江戸城無血開城を成功させるなど、実に波瀾に満ちた75年間を送ります。
勝海舟は、本所亀沢町、現在の両国に生まれます。この亀沢町の生家は勝海舟の父、勝小吉の本家である男谷家の家でした。勝海舟の祖父に当たる男谷平蔵は3男の小吉(勝海舟の父)にも幕臣株を買い、当主とさせます。それが無役の40俵どりの勝家でした。小吉は勝家に婿入りし、勝家の当主となります。その後も男谷家に勝家を同居させていたため、男谷家の家で勝が生まれることになりました(鵜澤義行著 勝海舟)。その後7歳のころ、本所入江町(現在の緑)に引っ越しているようです(河合敦著 江戸人物伝)。それぞれ石碑、案内板を見ることができます。
- 勝海舟生誕之地
東京都墨田区両国4丁目25−3 両国公園内に石碑あり。
- 勝海舟揺籃之地
東京都墨田区緑4丁目21
勝家は裕福な家ではなかったようで、勝海舟も貧しい幼少期を過ごしたようです。このころの勝海舟は剣術の修行に没頭していました。氷川清話には以下の談話が収録されています。
本当に修行したのは、剣術ばかりだ。(中略)
それからは島田の塾へ寄宿して、自分で薪水の労をとって修行した。寒中になると、島田の指示に従うて、毎日稽古がすむと、夕方からの稽古衣1枚で、王子権現に行つて夜稽古をした。
やがて勝海舟は蘭学に興味を抱き、永井青崖に学び蘭学塾を開きます。このころになっても非常に貧しく、氷川清話の談話には
この頃の俺の貧乏というたら非常なもので、畳といへば破れてたのが三枚ばかりしかないし、天井といへばみんな薪につかつてしまつて、板一枚も残つて居なかつたのだけれども、
と当時を振り返って語ったものがあります。
その後、時代が勝海舟を表舞台に引きずり出します。ペリー来航すると、幕府に海防意見書を提出。これが幕府の目に留まり、軍艦奉行にまで上りつめます。こうして激動の幕末をくぐり抜け、江戸城無血開城を成功させるに至ったのです。
勝海舟と氷川清話
上で引用した「氷川清話」は江藤淳、松浦玲によるものです。もともと、吉本襄により勝海舟の談話、回想をまとめられたものが「氷川清話」として出版されているのですが、吉本版の氷川清話については意識的に勝海舟の言葉を歪曲、改ざんしていると思われる個所があることがわかっています。そんな吉本版氷川清話に収められた談話をすべて検討し、修正したものに江藤淳、松浦玲による「氷川清話」です。
氷川清話には自身の生い立ちや人物評、文学評等、実に多くの談話が収録されています。口語体で書かれており、幕末の人物の言葉とは思えないほどのみずみずしさがあり、勝海舟を身近で感じることができます。氷川清話それ自体は談話集であり、勝海舟自身の記憶違いもところどころにあるため、歴史的事実と乖離している部分もあるのですが、勝海舟自身の目を通してみた生々しい歴史を感じることができます。
この座禅と剣術とがおれの土台となつて、後年大層ためになつた。(中略)
この勇気と胆力とは、畢竟この二つに養はれたのだ。危難に際会して逃れられぬ場合と見たら、まづ身命を捨てゝかゝつた。しかして不思議にも一度も死なゝかつた。こゝに精神上の一大作用が存在するのだ。
勝海舟の上記の談話が氷川清話に残されています。幕末を生き抜き、歴史を動かした勝海舟の原点が、両国にあります。