江戸時代の川の痕跡を残す首都高
中央区箱崎町に東京シティエアターミナルがあります。首都高速向島線が真上を通り、成田方面、羽田方面にもアクセスがしやすい交通の拠点となっています。
上記に挙げた図は1632年に刊行された「武州豊嶋郡江戸庄図」に首都高速向島線の経路を書き足したものです。緑色の線が向島線を表します。この図を見ると向島線が昔川であったところを走っていること、箱崎あたりは隅田川の河口付近にできた砂州であったことがわかります。
東京シティエアターミナル、向島線走る経路には箱崎川という川が流れていました。江戸時代には蠣殻河岸、行徳河岸などの荷揚げ場が置かれ、江戸湊の一端を担っていました。ここで注目したいのは行徳河岸です。
千葉方面の物流拠点、行徳河岸
現地案内板によると、行徳河岸の起こりは1632年、南葛西郡本行徳村の村民が土地を借り受け、江戸行徳間で物資の輸送を開始したことにあります。当時行徳は塩の一大生産地で、この塩を運ぶため小名木川、行徳新川の掘削を行いました。しかし、行徳河岸の役割は単に行徳と江戸を結ぶ駅にとどまりません。
少し時代を遡る1622年、利根川の瀬替え工事が行われます。これにより、利根川は銚子へと流れを変えるのですが、この利根川も水運として利用されます。銚子から利根川を登り関宿で江戸川に出、江戸川の下るこの水運のコースは「奥川廻し」と呼ばれ江戸の物流を安定させます。行徳河岸の物流ネットワークは行徳のみにとどまらず、さらには銚子、北日本へと繋がっていました。
現在も首都高速向島線の脇に銚子に本社を置く、ヤマサ醤油の東京支社がありますが、このことは江戸時代の水運とは無関係ではなさそうです。
箱崎川はその後、戦後の残土処理、また本格的なモータリゼーションの時代を迎え埋め立てられ高速道路へと姿を変えます。船から車へと手段は変わりましたが今でも交通の拠点として存在し続けています。