江戸城大城郭の名残、外堀跡を歩く

江戸城大城郭の名残、外堀跡を歩く

天正18年(1590年)、江戸に入城した家康は、江戸城の大規模な改修に取り組みました。諸大名に命じて行われた、慶長期(1590年代後半)からの江戸城改修は、寛永13年(1636年)まで数回行われました。

時代を越えて受け継がれる名城-江戸城江戸城が現在の位置に作られたのは、長禄元年(1457年) のこと。太田道灌によって作られました。武蔵野台地の東端に位置し、舌状の谷に守られた自然の要塞であったこと、湧き水が得やすかったことからこの地が選ばれました。家康入城後は諸国の大名による天下普請により、大城塞へと生まれ変わります。

40年以上の歳月をかけて作られた江戸城は大変な大城郭となりました。その規模は現在も残されている外堀を見るとよくわかります。神田川から、市ヶ谷、四谷、赤坂、京橋、日本橋までが外堀の内側。外周およそ16キロにも及び、大阪城の2倍の面積となります。

丸の内の地名の由来-大名小路からビジネス街への変遷丸の内の地名の由来は、江戸城内(丸の内)にあることに由来します。江戸時代、丸の内は大名屋敷が並び大名小路と呼ばれていました。明治に入り、三菱に払い下げられた大名小路は一丁倫敦と呼ばれるレンガ造りの町並に変わっていきます。

今回は外堀の一部の散策モデルコースをご紹介。外堀の遺構がいくつか見られるルートをたどりながら、江戸城の大きさを実感してみてください。

  • 歩行距離:5km
  • 歩行時間:1時間半
  • スタート地点:新橋駅
  • ゴール地点:四谷駅
  • 混み具合:新橋駅周辺は混雑している。遺構はほぼ屋外のため混雑はない。
標高図
新橋駅から溜池まではほぼ平坦。日枝神社は高台の上にあるが、エスカレーターなどが整備されている。赤坂見附から四谷までは長い上り坂になる。

外堀の名残、土橋

新橋駅銀座口を出て、鉄道の高架沿いに銀座方面に進むと、土橋という首都高の入り口を見つけることができます。この辺りの首都高は外堀の上を走るように作れており、土橋入り口には、外堀にかけられた橋「土橋」がありました。

土橋入り口のわきには、現在もわずかな段差を見ることが出来、外堀の流路を確認することができます。

土橋
土橋入り口わきの流路跡

ビルの一角に残された外堀石垣

土橋から外堀跡を虎ノ門方面に流路をたどる形で歩いていきます。日比谷通りを渡ると、日比谷セントラルビルというビルがあります。その一角に、外堀で使われていた石材を見ることができます。

現地の案内版によると、ビル工事の際、地下4mの所から発掘されたもので、外堀の南側に利用されて石材だとされています。

外堀石垣
ビルの敷地内に残された石垣

文部科学省外堀展示

さらに外堀跡を虎ノ門方面に進むと、桜田通りに突き当たります。霞が関3丁目の信号あたりが虎ノ門の跡。外堀に設けられた虎之御門が虎ノ門の由来です。

虎ノ門の地名の由来-江戸の町づくりと虎ノ門虎ノ門の地名の由来は江戸時代、外堀に作られた虎之御門にあります。虎之御門の名の由来は門が四神の1つ、白虎の方角に作られたことが理由とされています。物流、軍略上優れた土地に作られた江戸の町は日本の中心として長く発展していくこととなりました。

霞が関3丁目の信号を文科省の方向へ渡ります。文科省の重厚な建物を正面に見てその右に三年坂の上りがあります。三年坂側に文科省の敷地内への入り口があります。

文部科学省裏側入り口
建物の脇から裏側へ入る

敷地内に入ると、建物の裏側の屋外に外堀石垣をそのまま復元保存している一角があります。およそ5メートルほど残されている石垣とともに外堀の説明を見ることができます。

外堀石垣
復元された外堀石垣

外堀地下展示室

敷地内を少し進むと、東京メトロ虎ノ門駅の11番出口があります。11番出口を下りながら少し回りを注意してみると、壁面タイルの色が変わっていることに気づきます。この色の境が当時の外堀水面。駅まで向かわずに途中で右に入ったところに地下展示室があります。外堀石垣を真下から見ることが出来、当時の石垣のスケールを感じることができます。

外堀水面
外堀水面と底面をタイルで表している
外堀地下展示
説明版とともに石垣を見ることができる

溜池櫓台跡

文科省敷地内に点々と残された外堀石垣に沿って、さらに溜池方面に進みます。途中歩道橋を渡り虎ノ門三井ビル側へ渡ると、歩道橋の脇に石垣を見ることができます。

この石垣は溜池櫓台の跡。外堀に設けられた隅櫓一つで、唯一残されたものです。地表面に見ることができるのは上部の一角のみですが、間近でその規模感を確認することができます。

櫓台跡
櫓台跡、上部の一辺が残る
溜池の名残-外堀溜池櫓台天正18年(1590年)、江戸に入城した家康は、江戸城の大規模な改修に取り組みました。諸大名に命じて行われた、慶長期(1590年代後半)からの江戸城改修は、寛永13年(1636年)まで数回行われました。 40年以上の歳月…

溜池発祥の碑と溜池の地名の由来

さらに外堀通りを進むと、溜池交差点に至ります。交差点には溜池発祥の碑があります。

溜池の地名の由来は、江戸時代初期、この辺りに作られた上水用の池にあります。この辺りを流れていた汐留川上流の清水谷(紀尾井町のあたり)と、太刀洗川をせき止めて作られました。

外堀通りをさらに赤坂見附方面に進むとやがて日枝神社の鳥居が見えます。台地上にあり、ずいぶん高低差がありますが、外堀通り側からはエスカレーターが設置されているので楽に参拝することができます。

溜池の碑
溜池の碑。碑自体は割と新しいもの

赤坂御門跡

外堀通りを進み、赤坂見附交差点にたどり着きます。外堀通りから青山通りの坂を少し上り、歩道橋を渡ると石垣を見つけることができます。ここには赤坂御門があり、見附と呼ばれる桝形の空間が設けられていました。

赤坂御門
赤坂御門石垣

石垣を注意深く見ると見つけることができる「不」の文字。これは明治に入って設けられた水準点の跡です。

水準点
後年刻まれた水準点
江戸城の門から水準点へ-赤坂見附石垣天正18年(1590年)、江戸に入城した家康は、江戸城の大規模な改修に取り組みました。諸大名に命じて行われた、慶長期(1590年代後半)からの江戸城改修は、寛永13年(1636年)まで数回行われました。 40年以上の歳月…

赤坂御門石垣

赤坂見附を過ぎて、東京ガーデンテラス紀尾井町の敷地内に入ると、弁慶堀に少し下るデッキを見つけることができます。デッキを降りると、先ほど上った青山通りの坂に作られた赤坂御門の石垣を近くで見ることができます。

デッキの入り口
デッキの入り口。ガーデンテラス紀尾井町内から下る

東京ガーデンテラス紀尾井町の敷地内を下り、弁慶橋のたもとに出ると、紀州和歌山藩徳川家屋敷跡の碑があります。紀州徳川家、尾張徳川家、彦根井伊家の屋敷があったことから紀尾井町、という地名が生まれました。

四谷御門石垣
四谷御門石垣。高低差がありかなり重厚感がある。

赤坂の地名の由来?紀井國坂

弁慶堀に沿って進むとやがて坂道に至ります。この坂は紀井國坂と呼ばれます。紀州徳川家の屋敷に登る坂が赤坂と呼ばれており、それが地名となったという説があります。この赤坂が現在の紀井國坂。赤坂の起源と考えることもできます。

紀井國坂
紀井國坂説明板
赤坂の地名の由来-関東ローム層の赤土と坂赤坂の地名の由来は諸説あります。赤根山に登る坂「赤坂」からついたという説、赤土の坂「赤坂」からついたという説です。どちらも赤坂という坂の名前からついたということは共通しています。赤坂という名称の坂は現在残っていませんが、紀伊国坂のかつての名称が赤坂であったといわれています。関東ローム層の赤土でおおわれる東京には、赤坂の他にも「赤」がついた地名が多く残ります。

坂を上ると左側に東門という立派な門が見えてきます。紀州徳川家の門を移築し、そのまま迎賓館の門として利用されています。

迎賓館東門
迎賓館東門

喰違木戸跡

東門の近くの横断歩道を渡り、ホテルニューオータニ方面に進むと、喰違木戸跡があります。木戸という名の通り、木戸が設けらていました。石垣で作られた桝形門ではなく、土塁を左右から互い違いに伸ばし、そこに木戸を作ったもので、敵の直進を阻む構造となっていました。

喰違木戸
喰違木戸跡

四谷門跡

かつての土塁の跡と思われる、堀沿いの道を進むと、やがて四谷駅に至ります。

通りを渡り少し進むと、四谷門の石垣跡。桝形の四谷見附がこの地にありました。駅の一角には四ツ谷駅改修工事で発掘された石材が展示されており、石切場の説明版を合わせてみることができます。

四谷御門石垣
四谷御門石垣
発掘された石材
四谷駅改修で発掘された石材