江戸時代の宿場町、品川宿跡を歩く

江戸時代の宿場町、品川宿跡を歩く

日本橋を出発して8kmほどでたどり着く品川宿。江戸時代には東海道を往来する人で賑わいました。

品川宿は東海道の宿場としてだけではなく、風光明媚な観光地としても栄えました。江戸中心地から近く、春には桜の名所の御殿山、秋には海晏寺での紅葉狩り等四季折々多くの人で賑わいを見せました。

品川宿は岡場所(色町)としても有名な場所でした。飯盛女と呼ばれる旅籠お抱えの遊女は一時1500人の規模になったともいわれており、往時の様子は落語「居残り佐平次」などにも描かれています。

海辺の宿場町-東海道品川宿東海道1番目の宿場が品川です。品川宿は江戸からも近く、また海に面した風光明媚な宿場町でしたので大変栄えたといいます。本陣が1つ、脇本陣が2つ、旅籠が93軒が軒を連ねていました。旧東海道である北品川商店街から、台場方面へのわずかな下り坂が海沿いの宿場町であったことの名残です。
時代とともに姿を変えた-桜の名所御殿山御殿山の名前の由来は、江戸時代、この地に将軍の御殿が設けられたことにあります。御殿は江戸時代初期には鷹狩の際の休息所、茶会等に利用されました。その後桜の名所として知られるようになります。幕末には台場建造のための土取場となり、窪地が今も残されています。
紅葉狩りの名所-品川宿海晏寺品川区南品川に海晏寺という曹洞宗のお寺があります。海晏寺は紅葉狩りの名所として知られていました。海晏寺は品川宿にほど近く、品川宿には飯盛女と呼ばれる遊女が多くいました。つまり紅葉狩りに行く口実で、こうした遊郭へ遊びに行っていたようです。

そんな観光名所品川宿も幕末時代の渦に巻き込まれていくことになります。幕府は嘉永6年(1853年)のペリー来航をきっかけに海防強化のため品川台場の建築をスタートしました。品川宿には海辺に御殿山下台場が築かれます。

浦賀港ペリー来航の地-浦賀と与力中島三郎助浦賀は江戸時代を通して、港町として栄えました。ペリー来航時に投錨の地となったのも浦賀。ペリー艦隊との交渉は浦賀奉行所を通して行われました。浦賀奉行所与力、中島三郎助は交渉役として初めてペリー艦隊と接触した日本人の1人です。
第三台場から見たレインボーブリッジお台場の地名の由来-江戸時代の軍事遺跡第三台場お台場の地名の由来は、江戸時代にこの地に築かれた台場(大砲台)にあります。品川台場は1853年6月のペリー来航がきっかけとなり、海防強化のために築かれました。品川台場は当初の計画では第1台場から第11台場までの11が作られることになっていましたが、資金難により1~7台場までが着手、内、第4、第7台場が仕掛途中で中止となっています。現在は第3台場が公園として残されているほか、第6台場が人が立ち入らない状態で残されています。
五角形に見る台場跡-台場小現在の台場小学校がある所に、江戸時代、御殿山下台場が建設されました。当初予定されていた11基の台場建設が資金難により変更され、作られたのが御殿山下台場です。台場建設の費用は75万両。資金の一部は日本各地からの上納金があてられました。

その後開国した日本。品川宿からほど近い御殿山には公使館が建設され、攘夷運動の高まりにより、焼き討ち事件の舞台となってしまいます。

品川宿と攘夷-御殿山公使館焼き討ち事件品川宿に近い御殿山。桜の名所として知られたこの地は、幕末、台場築造のための土砂採石場となるなど時代のあおりを受けます。開国後、各国の公使館の建設予定地となり、イギリス公使館は完成間近の状態となりました。しかし、文久2年、長州藩志士たちにより、焼き討ちにあってしまいます。

江戸時代を通して多くの歴史が詰まった品川宿をめぐるモデルコースを紹介します。

  • 歩行距離:5km
  • 歩行時間:1時間半~2時間
  • スタート地点:品川駅港南口
  • ゴール地点:北品川駅
  • 混み具合:スタート地点の品川駅港南口は混雑している。北品川商店街も時間帯によりやや混雑。
中盤、御殿山方面に登る長い上りがある。終盤は平坦だが、品川神社の境内に上がるには石段を上る必要がある。

港南口から天王洲運河へ

港南口を出て500mほどまっすぐ向かうと天王洲運河にぶつかります。江戸時代、この辺りは一面の海。天王洲アイルの辺りには幕末台場が築かれていました。今では旧倉庫を利用した飲食店などおしゃれな建物が立ち並ぶエリアとなっています。

品川運河にかかる楽水橋

品川船溜まり

天王洲運河を品川宿の方に戻ると、船溜まりを見ることができます。この辺りには屋形船の乗り場がいくつかあり、運河には船が停泊しています。江戸時代はこの辺りに目黒川が流れ込んでいました。

船溜まりと品川の高層ビル

鯨塚の残る利田神社

船溜まりから少し南に行くと、利田神社という小さな神社があります。目黒川の河口付近にあった洲崎弁天がその起こりです。境内には品川の海に迷い込んだ鯨の遺骨を祀った鯨塚があります。

品川すさき砂州の先端に祀られた弁天跡-利田神社品川区にある利田神社は、江戸時代、目黒川河口の砂州に弁天堂が築かれたことがその起こりです。弁天堂は洲崎弁天と呼ばれ境内には江戸湾で捕獲された鯨の骨を埋めた鯨塚があります。江戸時代、紀州を中心に捕鯨が行われ、捕獲した鯨は骨に至るまで有効利用されました。

江戸時代の大砲台跡、御殿山下台場

台場、といえば江東区の台場が有名ですが、品川にも台場があります。現在は跡地が小学校になっていますが、その名も「台場小学校」。台場小は五角形をしており、昔の台場の形状を残しています。

五角形に見る台場跡-台場小現在の台場小学校がある所に、江戸時代、御殿山下台場が建設されました。当初予定されていた11基の台場建設が資金難により変更され、作られたのが御殿山下台場です。台場建設の費用は75万両。資金の一部は日本各地からの上納金があてられました。

江戸時代の岸壁にあった石

台場小から品川商店街の方向を見ると、傾斜していることがわかります。江戸時代、この傾斜の辺りが海岸線でした。海岸線には石垣が築かれており、その石垣が公園の入り口に残されています。

公園の入り口に残された波打ち際石垣

品川御殿山の桜並木と台場採石場跡

北品川商店街から離れ、御殿山方面に坂を上っていきます。往時は桜の名所として知られた御殿山ですが、現在では桜並木が整備されています。また、御殿山トラストタワーの庭園として整備されているあたりは、お台場建設の時に採石場となっていたところです。窪地になっており、大規模な採石が行われていたことがわかります。

御殿山の桜並木

東海寺沢庵和尚の墓所

三代将軍家光が、親交のあった沢庵和尚のため建立した東海寺。江戸時代は現在の面積より広く、現在も山手線の側に飛び地のような形で墓所が残されています。沢庵和尚もこの墓所に眠っています。

名所図会東海禅寺江戸の名所東海寺-東海寺と沢庵品川に東海寺という寺があります。紫衣事件で流刑となった沢庵和尚が開山したお寺です。沢庵和尚は将軍家光と深い信仰があり、そのためこの品川の地に招かれて東海寺を開きました。

品川神社をへて、本陣跡へ

平安時代の起こりといわれる品川神社。東海寺の鎮守として家光の庇護を受け今日に至ります。境内には富士塚が現存しており、東海道を見下ろすことができます。

品川神社の鳥居

品川神社をはなれ、東海道に戻ると、聖蹟公園があります。ここは品川宿の本陣跡。明治天皇が行幸の際に立ち寄ったことから聖蹟公園として整備されました。

品川宿本陣跡