品川区大井、旧東海道を見下ろす大井公園の近くに山内容堂の墓があります。大きな円墳に墓碑を附属させた珍しい型式です。
傍らには自然石に刻まれた「島津常候墓」もあります。こちらは十三代豊照の正室で薩摩鹿児島島津家十代斉興の三女候子(祝姫とも)の墓です。背面に「従四位下豊照朝臣(あそん)室墓」と記されています。。さらにもう一基の「豊範公妻栄子之墓」は十六代豊範夫人で、出羽米沢上杉斉憲の長女の墓。ほかに山内家合祀之墓がこの地にあります。

山内容堂の墓がある理由
もともと土佐藩の下屋敷が付近にあり、容堂が安政の大獄の際に蟄居していたのもこのあたりでした。付近の高台であった墓地のあたりを土佐山と呼び親しんでいたようです。容堂の希望によりこの地に埋葬されたと考えられます。
今の墓所があるあたりは鯖江藩主真部家の下屋敷でしたが、墓所として譲り受けることとなります。


山内容堂について
容堂、家督を継ぎ藩主に
十三代豊照が三十四歳の若さで嘉永元年(1848年)に病死してしまいます。豊照に子供はおらず、弟の豊惇が家督を継ぐことになりますが、わずか12日で急死してしまいます。家督相続の儀式が行われる前の急死でした。その下の弟は養子に出ており、末の弟の豊範はまだ3歳になったばかり。豊惇の死を隠し、急遽いとこにあたる容堂を養子とし、家督を継ぐことになります。
それまでは家督とは縁遠い立場で、趣味の酒や漢詩を楽しんでいた容堂にとって、家督相続は晴天の霹靂だったようです。下記のように言葉を残しています。
璋(容堂のあざな)もとは布衣韋帯(ほいいたい)、性読書をこのまず、山水に放浪し飲酒日をを消す。豈はからんや、弱冠あやまって王臣の員に備わり、以て南洲の太守に薦めらる。是れより後政に関与し、物に接し、事を議するに昧乎として遅疑し剖決する能わず。面熱し汗下り、頗(すこぶ)る前非を侮い、是れを以て始めて読書をしる
もともと庶民の出身で、読書を好まず、山や川をぶらぶらしたり、酒を飲んだりして毎日を過ごしていました。ところが、20歳ごろにひょんなことから家臣の一員となり、南洲の太守に推薦された。
それ以降、政治に関わるようになり、物事に対応したり、議論したりする際に、優柔不断でなかなか決断できませんでした。そのたびに顔を赤くして冷や汗をかき、以前の自分の至らなさを後悔しました。これをきっかけに、読書をするようになった、と自身のことを語っています。
その言葉通り、家督を譲り受けてのちも、隠居した十二代豊資は健在で、目を光らせていました。藩主としての学びや保守的な藩政を行っていました。
ペリー来航、頭角を現す
容堂の評価を大きく上げることになるきっかけがペリー来航です。幕府はペリーが渡した国書に対しての意見を諸藩に求めました。容堂たち土佐藩はアメリカの開国の求めは拒否し、国の守りを固めるべきとの意見書を提出します。
その後社会情勢の悪化をとらえて、藩政改革に乗り出します。積極的な人材登用や教育改革など藩政の近代化を進めていきました。
時代に合わせて柔軟的な考え方を取り入れた容堂
外交に関しても、当初は他の諸藩同様、鎖国的な考え方でした。しかし多様な人材との交流から世界の情勢を把握し、積極的に海外の技術を取り入れる必要性を理解、幕府の威厳を保ちつつ朝廷と連携して国力を高める公武合体派として活躍していくこととなります。
幕末の最終局面にあたって、幕府の力がさらに衰えると、坂本龍馬らの考え方を取り入れ、最終的に大政奉還へと時代を進めていきます。
新政府樹立後も要職を務めた容堂でしたが、明治5年(1873年)、息を引き取ります。時代とともに考えを柔軟に変え、受け入れていった容堂。大井の高台に今も眠っています。
参考文献
- 河原 芳嗣著/将軍・大名家の墓(シリーズ東京を歩く)
- 毎日新聞社/日本の肖像:旧皇族・華族秘蔵アルバム第6巻
- 平尾道雄著/山内容堂