台東区元浅草に誓教寺というお寺があります。誓教寺には、「富嶽三六景」などの作品で知られる葛飾北斎の墓があります。北斎は30回以上の画号の変更や、93回にも及ぶ転居など、その奇行でも知られています。
墓石に刻まれる画号「画狂老人卍」
北斎の墓石正面には「画狂老人卍墓」と書かれています。卍は北斎の画号の一つ。ほかにも春朗、不染居、宗理など30以上の画号を使っていたことで知られています。北斎の名の由来は、北斎自身が日蓮宗の柳島妙見を深く信仰していたことから。妙見菩薩は北斗七星の化身とされ、北斗七星の別称から北斎の名をつけたといわれています。
北斎の奇行、引っ越し
北斎のもう一つの奇行としてよく知られている引越し。生涯に93回を数えます。
居を転ずると名ヲかゆるとはこのをとこ(男)ほどしばゝなるハなし
もっと知りたい葛飾北斎
と曲亭馬琴が言ったように、引っ越しと改号で知られていた北斎。そのうち新居への転居は1度だけ、あとは借家での住まいだったようです。
上図は北斎の門人の露木為一という人物が描いた、晩年の北斎の住まいの様子です。83歳ごろの北斎が本所亀沢町の借家で暮らしている時の様子を描いています。一緒に描かれている女性は晩年を共に過ごした北斎の後妻の娘である阿栄です。
年中こたつに入り絵をかいては眠り・・。自宅に食器類も少なく、鮨の竹の皮や餅のかごなど食器に移さずに食べ、その殻が部屋の隅の掃きだめに重なっています。中央には「画帖扇面の儀は堅く御断申候」との張り紙。ずいぶんと自由な生活で画にどっぷりだった様子が垣間見えます。
江戸時代の転居と借家
北斎ほどではありませんが、江戸の人々はよく転居をしたようです。町名主と呼ばれる地主はいるにはいましたが、ほとんどの町人長屋を借りて生活していました。
引っ越しの理由は火災などの天変地異によるものもありますが、全国から人が集まる江戸。家財などはあまりなく、身軽であり、畑など土地に縛られるわけでもないため、今より気軽に引っ越しが行われていたようです。
長屋を借りるためには「貸屋」となっている札を捜し歩くか、自身番の紹介を受けて、町名主から長屋の管理を任されている大家と会うことから始まります。大家との面談では自分の事や同居人、使用人などはもちろん、同じ町内での同業による共倒れを防ぐために職業など詳しく調べられました。
長屋を借りる際には店請人と呼ばれる保証人を立て、賃料や条件などの現在の賃貸契約書に当たる借家請状を交わし、晴れて入居が許され「店子」となります。また、賃料とは別に樽代と呼ばれる礼金に当たるものの支払いもあったようです。
当時の大家は現在の管理人のような存在より、より重い役割を持っていました。町役人の末端であり、町人の管理やもめごとの仲裁など行政の一部を担っていました。
北斎の晩年
天保5年(1834年)、75歳の北斎は富士山を題材とした作品の総決算ともいえる「富嶽百景」を発表します。そこには以下の北斎の言葉が記されています。
己六歳より物の形状を写の癖ありて
半百の此より数ゝ画図を顕すといへども
七十年前画く所は実に取に足ものなし
七十三才にして稍禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
故に八十六才にしては益ゝ進み
九十六才にして猶其奥意を極め
一百才にしては一点一格にして生るがごとくならん
願くは長寿の君子予が言の妄ならざるをみたまふべし
6歳から絵に親しみ、これまで活動を続けてきたが、まだまだ道半ばであるという情熱が感じられます。
嘉永2年(1849年)、90歳でこの世を去った北斎。大往生でしたが、死の淵で「あと10年、せめて5年生き永らえさせてくれたら真正の画工となりえたのに」という言葉を残しています。
多くの転居を重ねた北斎ですが、誓教寺に静かに眠っています。
参考文献
- 酒井茂之著/東京お墓巡り
- 凡平著/江戸の人情「長屋」がわかる
- 田中優子著/江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか?
- 辻惟雄著/北斎の奇想
- 永田生慈監修/もっと知りたい葛飾北斎
- 浮世絵を読む4 北斎